まちとも こころのおもむくままに

==ボランティア時々写真撮影==
日々の暮らしの中で感じたこと、時々撮る写真などを綴っていきます。

無くならない障害者排除

2024-01-22 17:45:15 | 障害者福祉
昨日、yahooニュースを見ていたら、障害者グループホームの開設を断念したという記事がありました。
障害者グループホームを開設しようと準備していたら、地域住民の反対で断念せざるを得なかったというものです。



私自身も30年前に障害者の共同作業所を作ろうとして、地域住民の猛反対にあい開設を断念した体験があり、いまだにこんなことが起きるのかと悲しい思いになりました。

記事にあるように、説明会を開催しても聞く耳を持たないようなつるし上げ状態は同じ体験をした者として今でも鮮明に覚えています。
住民の「お金があれば引っ越したい」という声も、自分の体験の中では「地価が下がるからくるな」という声としてありました。
障害者への理解を進めようと様々な取り組みが進められ、バリアフリーが進むなど一定の前進はありますが、人々の心の中ではまだまだ偏見が強いことが示されたものと感じました。

この記事へのコメントが3000以上寄せられているようで、社会の関心も高いと感じています。
コメントで気になるのは、障害者が犯罪を犯しやすい、迷惑行為をする人がいる、加害者になったとき施設はどのように対応するのかという意見が多く見られることです。
触法行為をする障害者がいることを否定はしませんが、犯罪発生率からみると障害者のそれは、障害のない人のそれに比べて低いことが統計的に示されています。
非難のための書き込みというコメントが見られるのも残念なことです。

障害者支援にあたる者として、理解をしていただくためには障害者と地域の人たちとの交流が大切と考え、交流会の場を設けるなど努力をしています。
もっともっとこうした取り組みを進めて理解の拡大をはかることが求められると感じました。

50年間の振り返りから エピソード10 七夕

2023-07-07 16:30:30 | 障害者福祉
今日は七夕、50年間の相談支援を振り返った時に七夕に関するエピソードもいろいろあります。その中の多くは、精神障害者のグループ活動に関わっていた時のものです。

1980年、私が保健所に異動した年に在宅の精神障害者のソーシャルクラブ活動(グループ活動)が始まりました。これを行うために相談員が1名増員で、そこに異動することになったわけです。当時は、病院のデイケアも実施されてなく何もサービスがない状態で、在宅の人たちから行く場所が欲しいという希望が出されていました。そんな要望にこたえる場として、この活動が取り組まれました。これも先例がほとんどない状態から手探りで支援を考える取り組みでした。

週1回、9時から午後3時までを基本の活動時間としていました。
プログラムは、レクリェーション、創作活動、料理、スポーツなど多様で、利用者の希望を聞いて組み立てたり、スタッフから提案したりと手探りで作りだしていきました。

この活動には、保健所にいる間、ほとんどの期間関わってきました。どうしたらみんなで楽しく過ごすことができるのか、ここから学んだことも多くあります。自分も利用者と同等で一緒に楽しむということが大切だと学びました。料理は保健所の栄養士に指導してもらい、ここでもいろいろ覚えました。書道や絵画も、保健所の職員に得意な人がいるのでその人に指導してもらいながら私も一緒に書きました。カラオケが流行し始めた時で、歌いたいという希望が強く、カラオケ機材一式を備品として購入しました。レーザーディスクのカラオケ機材で、そんな機材の操作が好きな利用者がいたので、これも一つの役割で任せました。歌いたい人が多く1人2曲とか制限しながら、私も一緒に歌いました。スポーツは、卓球は用具が揃っていたのでいつでもできました。インディアカという種目がありますが、これもよくやりました。80年代の前半ころは若くて活発なメンバーが多く、ソフトボールやバレーボールも時々やっていました。

季節の行事も大切にしてきました。クリスマス会は人気メニューの一つでした。桜が咲けば花見に行きました。七夕もメニューの一つでした。短冊に書いて竹に吊るすこともあり、清水駅前の七夕まつりを見物に行くこともありました。七夕などのように保育園でやるような行事を大人の集まりであるグループ活動でやる意味があるのかという疑問もありましたが、実施してみればみなさん子どもの頃に帰ったように楽しんでいる姿が見られました。何よりも季節感を大切にすることで日々の生活にメリハリをつけることが必要だと感じました。

年に1回、1泊旅行にも取り組みました。最初はキャンプ場でテントを張ってキャンプファイヤーを楽しむという活動でしたが、その後は国民宿舎などの安い宿を利用するようになりました。参加者の中には、夜眠れない人もいて徹夜でお付き合いすることもありました。

病院デイケアも、高齢者のデイサービスも何も行われていない時に手探りで実施したグループ活動でした。20数年間この活動に関わってきましたが、そこから得たものは多くありました。グループ活動のノウハウは身体にしみ込んでいる感じです。スタッフも利用者も対等に一緒に楽しむことが何よりも大切です。また、自分自身にとっては、レクリェーションの進め方はもちろん、調理、各種の創作活動、スポーツなど多くのことが体験でき、それらが自分を豊かにしてくれるものであったことです。
七夕の日にそんなことを感じています。

清水駅前の七夕まつり(2019年撮影)





   


50年間の振り返りから エピソード9 グループホームの原型を作る

2023-07-06 17:21:30 | 障害者福祉
静岡市内では1970年代初頭から退院して社会生活が送れるような支援が試みられていました。今のグループホームの基礎になる活動で、共同住居活動というものです。当時、全国で数か所の取り組みでしたが、市内でも保健所の相談員、病院のソーシャルワーカー等が集まり、それを生みだしました。

私が関わったのは保健所に異動してからで、活動が軌道に乗って複数の住居活動を始める時期でした。借家で4人ほどが共同で暮らすのを支援者が支援するという活動です。長期に入院していた人たちにとって、自力で暮らすことは大変です。どんな支援が必要なのか、日々発見でした。活動が始まった当初は、包丁を持って調理することは大丈夫なのかということまで心配されていました。支援者が毎日交代で泊まり込み、支援する形でした。その内に利用者の力が見直されるようになり、支援のポイントがわかるようになって、泊まりこみでの支援から、日々夕方に支援に入る方向に移行しました。

私が関わる頃には市独自の補助金が出るようになり、世話人を配置して、支援者は週2回程度の訪問活動という体制になっていました。また、支援者と世話人が月に1回は集まり、支援内容等について話し合う場がありました。そのような支援の情報を共有することが、より効果的な支援に結びついていきました。

支援の中では様々なエピソードが生まれ、在宅支援の方法がその都度蓄積されるという状況でした。この活動から、生活障害といわれる、精神障害者がかかえる障害の一部を理解していくことができました。また、利用者が次の利用者を誘ってくるという利用者自身の持っている力も発見できました。共同住居活動は厚生労働省からも注目されるものとなり、後に制度化されたグループホームの支援の原型になっていきました。

私にとっては、長年の活動で延べ数百人の支援に関わり、精神障害者が抱える生活上の困難を学ぶことができる場でもありました。

可睡ゆりの園にて





   


50年間の振り返りから エピソード8 ボランティア養成

2023-07-05 20:15:32 | 障害者福祉
保健所での業務が10数年経過した1990年代半ば、在宅の精神障害者施策が少しずつ増えてきました。さらにサービスを広げるには、精神障害を理解し支援してもらえる人たちを増やすことが必要と考え、精神保健福祉ボランティア養成講座を行うことを企画提案し、予算がない中で実施することになりました。予算がなければ周りを巻き込んでやるしかないと、病院や社協と共同で実施することにし、ボランティアの基礎は社協、医学的な解説は病院、実践的な障害の理解等は保健所と分担して実習も含めて8日間の講座を開催しました。30名余の参加者があり、受講者でボランティアグループを結成し、様々な分野で活動してもらうとともに、ボランティアグループ独自の活動も生み出されました。

このボランティア講座はその後も5年にわたって毎年行い、その都度新たなグループが作られました。それぞれ独自の活動が展開されるようになりました。

その中の一つは、ボランティアの持っている借家の一部を利用した夕食会の開催。月1回、そこに集まってボランティアと参加者で夕食を作り、一緒に会食します。一人暮らしでみんなで話しながら食事をする機会が少ない人たちを中心に10数人が集まって会食しました。ほとんどの会に私も参加しました。その場所が有名な花火会場の近くにあったので、花火大会の時は早めに食べてみんなで花火見物することもありました。ボランティアも高齢化で数が少なくなり10年ほど前に夕食会は終了しました。

もう一つ、スナックのママさんがボランティア講座を受講し、その方の提案で経営していたお店を利用したカラオケグループという活動も生まれました。月一回、土曜日の午後にそのお店を利用してカラオケを楽しもうという集まりです。これは、私が店の鍵を借りてその場を管理するということでできたもので、ママさんが店を閉めるまでの3年間ほど続けられました。2時間ほどの集まりでしたが、カラオケ好きが10数人集い、次々と歌われていました。みんなで会費を出し合い、飲み物を用意して楽しく時間を過ごす集まりになりました。

こうした集まりに参加するのは、私自身もボランティアとして通常の業務とは一線をおいていました。業務を離れ、こんな感じで障害者と関わりながら過ごす時間は私自身にとっても楽しく、大事な時間でした。

可睡斎の風鈴




   


50年間の振り返りから エピソード7 時々緊急出動

2023-07-04 17:34:31 | 障害者福祉
精神障害の中には、時に未治療や医療を中断していて興奮状態で家族に乱暴する、法に触れる行為を行う場合があります。そんな時、警察から精神障害の疑いがあるから対応をお願いしますという通報があります。通報があれば即時に警察署や現場に出向きます。その状態を見て、すぐに受診の必要がある場合は病院に連れて行くことになります。通報は時間を選びませんから、深夜に連絡が入ることもよくあり、時には職場の懇親会の場に連絡が入ることもありました。

警察署に保護されている時は保護房に入っていることが多く割と落ち着いた状態ですが、現場に行った時は警察官数人に抑えつけられた状態のままとか、これから制圧するので一緒に対応してほしいとか様々な状況でした。

警察からの通報に伴う対応については、今でも覚えているケースが多くあります。一番印象に残っているのは、10代後半の男の子で、家で暴れてガラスが割れ腕をかなり深く切ってしまった状態。救急隊員が応急処置はしましたが、負傷していることもあって警察官も手を出せずにいて、本人に受診の説得をすることになりました。いろいろ話を聞く中で、病院に通院中で薬を処方されていることがわかり、興奮を抑える薬が出ていたのでその服用を病院に確認しながら本人に飲むように説得を続けました。

やっと薬を飲んでしばらくして落ち着いてきたので、受診の説得をはじめ、説得を続けて受診に同意し、車に乗りました。ここまでが通報を受けて現場に行ってから3時間くらい経過。さらに病院も、精神科の救急では腕の治療をしてから来るように言われるし、外科の救急では精神科を受診してから来てほしいと言われ、精神科病院の院長とじかに話して先に精神科で治療してもらい、腕の治療は当院ではできないので外科の救急でお願いしたいと病院同士で連絡を取ってもらい、外科の治療を受け、その後再び精神科に入院するために移送するということでしめて3時間くらいかかりました。

その後、この子は状態も改善して会えば良かったねと話もしましたが、再び悪化し3年ほどして自殺したとの情報が入りました。

警察官通報は、精神保健福祉法第23条に規定されています。現場では、日常的な相談支援から法に定められた対応まで様々なことがありました。緊急対応は一週間ごと当番を決めて対応していましたが、一人に負担が重ならないように、それぞれの相談員の業務分量を勘案しながら日常的な支援にあたっていました。

長光寺のアジサイ