子どものころにいっぱい辛いことや、その年齢では耐えきれない出来事があると、乖離(解離)して自分の身を守る。
身体と心が離れていくというか、ひどい目に合っている自分の事を空から見てるみたいな感じですかね。
それが頻繁にあると、ちょっとした人格が出来て、別人格でいる時間が長くなると、記憶がないという状態がポッコリできるわけ。
私は
10歳から13歳はすっぽり抜けている。
幼少期の家庭の様子とかももちろん、ところどころしか記憶がない。
あるのは、運動会に家族がだれも来ていないとか、
ピアノの発表会にだれもいないとか、
来ててもへたくそだと罵られている瞬間とか
写真では見ることが出来るので、なんとなくそうだっけ?と思うことが多い。
英語が大好きだった私はある日突然英語がわからなくなり、先生の驚いた顔が今でも浮かぶ。
いまでも、嫌いなのが私を化け物でも見るみたいな眼。
別人になっているので、きっとまわりは驚いた瞬間なのだろうけれど、とてもそれは鮮明に浮かんでくる。
今は、自分の家族には、それを見せていても困ったことにはならないけれど、他人にはならないで欲しいと、それぞれにお願いしている。
怒りの感情を担当してくれた男の子は、性虐待を耐えてくれて小さな私の代わりに、嫌な思いをいっぱいしてきた。
その子は、大好きな音楽を奪われても、じっと耐えてきた。
痛みに強いのも、きっと彼が耐えていたから、今もそうなのだろうと思う。
大人になってからの人格は娘が言うには非常に似ていて、普通の時と、スペシャルな時と、超スペシャルな時があるらしい。
今は記憶が飛ぶことはない。
すべての人格を併せて「私」だから。
だれも、消えないし、消せない。
一緒に生きていきたい。
身体は一つだけれど、いっぱいつながって生きていくんだもん。
じゃないと、自分自身を否定することになるから、それはしたくない。
いろんな感情と向き合うと、今より辛く感じるときがあるかもしれないけれど
今向き合わないと、くずぶったままになるかなって思うので、大きな一歩を踏み出そうと思う。
大丈夫、話を聞いてくれる人に出会ったから。
神様がいるってわかったから。
私が生きていくにはちゃんと神様からの賜物をもらって、それを大切に出来れば、大丈夫ってわかったから。
大変かもしれないけれど、大丈夫って思うから、自分を受け止めようって、思ったよ。
身体と心が離れていくというか、ひどい目に合っている自分の事を空から見てるみたいな感じですかね。
それが頻繁にあると、ちょっとした人格が出来て、別人格でいる時間が長くなると、記憶がないという状態がポッコリできるわけ。
私は
10歳から13歳はすっぽり抜けている。
幼少期の家庭の様子とかももちろん、ところどころしか記憶がない。
あるのは、運動会に家族がだれも来ていないとか、
ピアノの発表会にだれもいないとか、
来ててもへたくそだと罵られている瞬間とか
写真では見ることが出来るので、なんとなくそうだっけ?と思うことが多い。
英語が大好きだった私はある日突然英語がわからなくなり、先生の驚いた顔が今でも浮かぶ。
いまでも、嫌いなのが私を化け物でも見るみたいな眼。
別人になっているので、きっとまわりは驚いた瞬間なのだろうけれど、とてもそれは鮮明に浮かんでくる。
今は、自分の家族には、それを見せていても困ったことにはならないけれど、他人にはならないで欲しいと、それぞれにお願いしている。
怒りの感情を担当してくれた男の子は、性虐待を耐えてくれて小さな私の代わりに、嫌な思いをいっぱいしてきた。
その子は、大好きな音楽を奪われても、じっと耐えてきた。
痛みに強いのも、きっと彼が耐えていたから、今もそうなのだろうと思う。
大人になってからの人格は娘が言うには非常に似ていて、普通の時と、スペシャルな時と、超スペシャルな時があるらしい。
今は記憶が飛ぶことはない。
すべての人格を併せて「私」だから。
だれも、消えないし、消せない。
一緒に生きていきたい。
身体は一つだけれど、いっぱいつながって生きていくんだもん。
じゃないと、自分自身を否定することになるから、それはしたくない。
いろんな感情と向き合うと、今より辛く感じるときがあるかもしれないけれど
今向き合わないと、くずぶったままになるかなって思うので、大きな一歩を踏み出そうと思う。
大丈夫、話を聞いてくれる人に出会ったから。
神様がいるってわかったから。
私が生きていくにはちゃんと神様からの賜物をもらって、それを大切に出来れば、大丈夫ってわかったから。
大変かもしれないけれど、大丈夫って思うから、自分を受け止めようって、思ったよ。
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