前にも幼稚園の誕生会のことについては、書いたような気がしますが、改めて。
今日は園児のイザベルラの誕生日。今年になって子どもの誕生日はほとんど、土曜か日曜で幼稚園がある日ではありませんでした。
この南の島では、誕生日当日のみが誕生日であって、日本のように誕生日が日曜日だから、月曜日におめでとうって言ったりはしません。
誕生日なのに幼稚園が始まる時間に来ないので「おいおい欠席かあ」って思っていたら、
少しおめかしして登場。(日本人がぱっと見ても分からないかも?)
昼の給食が終わると、ケーキとアイスクリームが出てきました。
もちろん、イザベラのお家の方が買ってきてくれたものです。
日本では、個人的なお祝いを幼稚園でするなんて絶対ご法度。
それはみんなが平等にするためには必要不可欠なこと。
でも、この島に来ていると、どっちが平等なのかな?って考えさせられます。
確かにお祝いをしてもらうのはイザベラだけど、子どもたちはみんなケーキとアイスクリームが食べられて大喜び。別にイザベラが特別扱いされるわけではなく、みんな美味しいものが食べられることに大喜び。
この島で家に一緒に住む家族の誕生日には何度も遭遇。
そのたびに近所の子どもたちが集まってきて、ケーキを食べるために列を作ることも多々あります。それがたとえ家族のお母さんであっても、ケーキは用意されて、近所の子どもというか、誕生日がこの家であると聞きつけた子どもは、食べられるという感じでしょうか?
いくら寛容な南の島でも、私の家の家族の誕生日だと、私の家の子どもと全く仲良くないと難しいですが。でもこの間は、僕の元生徒のアブサレムは、僕の家の子どもの誰とも仲良くないというか友達でもないのに、昼ごはん食べていきましたが・・・
そして誕生日を通して感じることは、この島のシェアーの精神。
確かにこの島ではシェアーという名の下、勝手に人のものを使っても返さない、貰ってしまうっていう、それはシェアーって言わないよねってこともありますが。
この島に住んで、日本人は(特に自分は)ケチだなって思います。
凄く自分の物と人のものを区別して、明確にする。
もちろん、物質社会では当たり前だし、将来のことを考えて貯金する、蓄えるってこともとても大切。
ここの島の人は、そんな先のことを考えないで、あればあるだけお金を使ってしまうのはちょっと困りものだけど、こうして誕生日に見られるシェアーの精神って僕らももっと見習うべきではないかなって?
自分の生活を豊かにする、それが経済発展や勤労の源だけど、それだけではちょっと寂しいかな?って感じます。
もう少し、僕たち日本人もシェアーをする考えを持つことができれば、もっと社会も心も豊かになって、変な競争意識も薄れるような。
もちろん、資本主義社会ですから、競争心がなくなってしまっては大変なのですが。
お金って凄く大切。でもそれって少々増えても、生活が激変するわけではないような。
年収が500万でも1000万でも、食べる肉の値段が違ったり、乗る車の種類がかわったりするだけで、生活そのものってあまり変わりないのではって?
もちろん、僕もできるだけ給料がよければいいと思うし、お金を毎月貯金して生きているのですが。
こんな話を聞いたことがあります。
一生金持ちな人は、一生貧乏な人と一緒だと。
つまり、お金がない人がお金を持つようになって、こんなことができるようになったと感じるのであって、ずっと生まれたときからお金を持ち続けている人は、お金のありがたみ、お金が増えた喜びがわからないから、貧乏なのと一緒だと。
もちろん、生きるのにも困るほどの貧困は、また別の問題があるので、一緒には語ることができませんが。
話がいろいろなところに行ってしまいましたが、子どもたちと一緒に分け隔てなくケーキを食べて、とても幸せな一日でした。
最近、凄く美味しいものを食べるとおなかの調子が悪くなるのは何故?
お腹がローカルの生活に馴染んで、日本食とか美味しいものを連続して食べるとどうやらローカル仕様のお腹がびっくりするみたい。
嬉しいような、悲しいような。
今日は園児のイザベルラの誕生日。今年になって子どもの誕生日はほとんど、土曜か日曜で幼稚園がある日ではありませんでした。
この南の島では、誕生日当日のみが誕生日であって、日本のように誕生日が日曜日だから、月曜日におめでとうって言ったりはしません。
誕生日なのに幼稚園が始まる時間に来ないので「おいおい欠席かあ」って思っていたら、
少しおめかしして登場。(日本人がぱっと見ても分からないかも?)
昼の給食が終わると、ケーキとアイスクリームが出てきました。
もちろん、イザベラのお家の方が買ってきてくれたものです。
日本では、個人的なお祝いを幼稚園でするなんて絶対ご法度。
それはみんなが平等にするためには必要不可欠なこと。
でも、この島に来ていると、どっちが平等なのかな?って考えさせられます。
確かにお祝いをしてもらうのはイザベラだけど、子どもたちはみんなケーキとアイスクリームが食べられて大喜び。別にイザベラが特別扱いされるわけではなく、みんな美味しいものが食べられることに大喜び。
この島で家に一緒に住む家族の誕生日には何度も遭遇。
そのたびに近所の子どもたちが集まってきて、ケーキを食べるために列を作ることも多々あります。それがたとえ家族のお母さんであっても、ケーキは用意されて、近所の子どもというか、誕生日がこの家であると聞きつけた子どもは、食べられるという感じでしょうか?
いくら寛容な南の島でも、私の家の家族の誕生日だと、私の家の子どもと全く仲良くないと難しいですが。でもこの間は、僕の元生徒のアブサレムは、僕の家の子どもの誰とも仲良くないというか友達でもないのに、昼ごはん食べていきましたが・・・
そして誕生日を通して感じることは、この島のシェアーの精神。
確かにこの島ではシェアーという名の下、勝手に人のものを使っても返さない、貰ってしまうっていう、それはシェアーって言わないよねってこともありますが。
この島に住んで、日本人は(特に自分は)ケチだなって思います。
凄く自分の物と人のものを区別して、明確にする。
もちろん、物質社会では当たり前だし、将来のことを考えて貯金する、蓄えるってこともとても大切。
ここの島の人は、そんな先のことを考えないで、あればあるだけお金を使ってしまうのはちょっと困りものだけど、こうして誕生日に見られるシェアーの精神って僕らももっと見習うべきではないかなって?
自分の生活を豊かにする、それが経済発展や勤労の源だけど、それだけではちょっと寂しいかな?って感じます。
もう少し、僕たち日本人もシェアーをする考えを持つことができれば、もっと社会も心も豊かになって、変な競争意識も薄れるような。
もちろん、資本主義社会ですから、競争心がなくなってしまっては大変なのですが。
お金って凄く大切。でもそれって少々増えても、生活が激変するわけではないような。
年収が500万でも1000万でも、食べる肉の値段が違ったり、乗る車の種類がかわったりするだけで、生活そのものってあまり変わりないのではって?
もちろん、僕もできるだけ給料がよければいいと思うし、お金を毎月貯金して生きているのですが。
こんな話を聞いたことがあります。
一生金持ちな人は、一生貧乏な人と一緒だと。
つまり、お金がない人がお金を持つようになって、こんなことができるようになったと感じるのであって、ずっと生まれたときからお金を持ち続けている人は、お金のありがたみ、お金が増えた喜びがわからないから、貧乏なのと一緒だと。
もちろん、生きるのにも困るほどの貧困は、また別の問題があるので、一緒には語ることができませんが。
話がいろいろなところに行ってしまいましたが、子どもたちと一緒に分け隔てなくケーキを食べて、とても幸せな一日でした。
最近、凄く美味しいものを食べるとおなかの調子が悪くなるのは何故?
お腹がローカルの生活に馴染んで、日本食とか美味しいものを連続して食べるとどうやらローカル仕様のお腹がびっくりするみたい。
嬉しいような、悲しいような。
日本じゃ、牛乳で乾杯くらいしかしないですもんねぇ
この島だけに限らず、開発途上国を訪れると、どちらが本当に豊かなのか?を考えさせられますね。
本当に豊かさとは何か?国民総生産では、計りきれない幸せ度・裕福度があるように改めて思います。
そういう調査もあって1位は、バヌアツっていう南の島らしいですよ。
世界で南の島は、かなり幸せ度が高い島が集まっているかも?