「ちょっと待(ま)って…」彼は立ち止まって言った。「なぁ、他(ほか)に知っておいた方がいいことないのかなぁ。初(はじ)めて会うわけだし、君(きみ)のお父(とう)さんには…」
彼女は振(ふ)り返ると答(こた)えた。「そうねぇ、あとは…言葉(ことば)づかいかなぁ。ちゃんとした日本語(にほんご)を話さないと、機嫌悪(きげんわる)くなるかもねぇ。でも、ハル君だったら、きっと大丈夫(だいじょうぶ)じゃない」
「いやぁ、俺(おれ)…、どんどん自信(じしん)なくなってきちゃったよ。やっぱり今日は…」
「ダメよ。行くって言っちゃったし。それに、パパ、曲(まが)がったことが嫌(きら)いな人だから、約束(やくそく)を破(やぶ)ったら大変(たいへん)よ。それとねぇ、きっと、パパ、言うと思うんだ。〈娘(むすめ)を泣(な)かすようなことをしたら、ただじゃおかない〉ってね。――ここよ、私の家…」
二人は家の中へ。そして、父親(ちちおや)が待っている座敷(ざしき)へ――。彼女は襖(ふすま)の前で座(すわ)ると居住(いず)まいを正(ただ)しておしとやかに、「小夜子(さよこ)です。ただ今戻(もど)りました」
座敷の中からは、父親の威厳(いげん)のある声が聞こえた。「入りなさい」
彼女は襖を開けて座敷の中へ入って行った。そして、父親の前に座り直すと頭を下げて、
「お父(とう)さま、こちらが、先日(せんじつ)、お話した〈小池春男(こいけはるお)〉さんです」
突然(とつぜん)の紹介(しょうかい)で、彼は慌(あわ)ててしまった。だって、普段(ふだん)の彼女とまったく違(ちが)うのだ。彼女の立ち居(い)振る舞(ま)いに、思わず見とれていた。慌てたせいで、彼は敷居(しきい)に足をとられて転(ころ)んでしまった。父親は冷(つめ)たい目で彼を見た。彼女は、素知(そし)らぬ顔で彼を見ようともしなかった。
彼は思った。「何だよ。もしものときは、助(たす)けてくれるって言ってたのに…」
<つぶやき>おっと、これは一大事(いちだいじ)です。でも、これって彼女の策略(さくりゃく)かもしれませんよ。
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