膝の具合はここ数日、今の状態から、ずっと変わっていない。
今の状態とは、膝を内側に曲げるような動作、要するに内股の形状になる時以外は、ほぼ痛むことはないという状態の事だ。
ぼちぼち、高良山ぐらいから始めることにした。
さすがに、まだ走る訳にもいかないので、久々に高良山を歩きで登った。
神籠石コースというルートがある。
ほぼ誰も通らないルートであるが、古代史好きな私にとっては好きなコースでたまに登る。
ここで、神籠石について少し述べておきたい。
興味が無い方は、ここでページから離れられるか、ずっと下段まですっ飛ばされるがよかろう。
神籠石が何のために作られたのかについては諸説ある。
すなわち、防御のための土塁の土止め、祭祀用、狩猟目的等々だ。
高良山の神籠石は、山上にある高良大社まで一直線に伸びている列と、麓と高良大社裏で直角に曲がった部分とで出来ている。
所謂、コの字、あるいは大かっこ ] の縦辺部分が長大なものと理解してもらえば間違いない。
この画像でもわかる通り、山の形状を全く無視して、ひたすら真っ直ぐに山上まで伸びているのだ。
なので、場所によったら、神籠石が脇の道路より低い部分もあるくらいだ。
そういう防塁があるだろうか。
そもそも、こんな長大に縦長の防衛ラインを引く事自体、合理性を甚だ欠くと言わねばならない。
通常は下から登ってくる敵に対し、山ひだに沿って横に防衛ラインを置き、防衛主体である山上の高良大社を守るのではなかろうか。
毎度高良山に登る者としては、これは少なくとも防御目的ではないと断言したい。
これを作った勢力と年代、その目的について、私なりの考えはあるが、まとまってもいないのでここでは省く。
登るにつれ、崩落している神籠石が多くなる。
何故か。
この段差は、活断層のズレである。
白鳳大地震の傷跡なのだ。
679年に起きたとされる、耳納活断層による大地震である。
最大で、神籠石ラインにも2m近いズレが見られる。
当時の被害のすさまじさが分かる。
林の向こうに見えるのは、修繕中の高良大社の屋根。
その裏手に廻る。
この部分が神籠石の最上部となる。
久々の高良山山頂だ。
例によって、自撮り写真の掲載は辛抱してもらおう。
山頂から売店方向に降りると、森林公園は久留米ツツジが色とりどりに花を咲かせようとしていた。
株によりばらつきはあるが、全体としては70%の株が開花を迎えようとしている。
このツツジの開花と共に、蜂が公園中を舞うのも例年通りだ。
久留米つつじは江戸時代、久留米藩士(名前は忘れた)が品種改良したのが始まりで、その後も様々な品種が作り出された。
連休頃は見頃を迎えそうだ。
背後は高良山。
足の方は上り下りとも全く痛みはない。
この前、基山に登った時は、帰ってきてから少し痛んだが、今回はそれもない。
ぼちぼち、本格的にやるかな。