10月17日
新潟である。
今日は長岡を中心に周りたい。
その前に、たまたま検索で引っ掛かった、新潟市内のここに立ち寄る。
旧月潟駅だ。
ラッセル車が展示されている。
さすがに雪国である。
九州人の私としては、現物を見るのは初めてだ。
昭和7年製のエンブレム。
何たって鉄道省だもんね。
熱心に眺めていると、駅舎からバアチャンが出て来て、
「何の撮影?」
「え?ただのしがない観光客ですが。」
「あらまあ。妙な車に乗ってたんで、てっきり報道の方かと。」
あのねえ。
あれは中継車じゃないっつうの。
このバァチャン、駅の保存会の方で、駅と車両について色々と教えてくれる。
「ラッセル車には動力はありません。この動力車で後ろから押してました。」
「ほほう。」
ラッセル車のドアを開けてくれようとするも、押しても引いても開かない。
「おかしいねぇ。どうしようかしら。」
「あー、よかです、よかです。こっちば見ますから。」
動力車の車内。
古びた木製の床は、ささくれ立ってしまっている。
客車
「カボチャ列車と言われてます。かわいいでしょう。」
「カボチャのどこが・・・。あ、いや、ほんなごと可愛かですね。」
長岡へ
河合継之助生誕の地。
今は記念館となっている。
戊辰戦争で新政府軍を一番苦境に陥れた戦い、北越戦争長岡藩総督である。
いち早く洋式装備の重要性に気付いた継之助は、最新装備で藩の軍備を整える。
なかでもこのガトリング砲。
当時日本に3門しかなかったうちの2門を、この長岡藩が所有する事になる。
一通り見学した後、係りの女性に、
「長興寺と栄涼寺さんに行きたいんですが、暫く車置かせて貰えませんか?」
「どうぞどうぞ、構いませんよ。」
10分ほど歩くと長興寺に至る。
あの連合艦隊司令長官山本五十六の墓がここにある。
合掌
更に5分で栄涼寺に着く。
歴代長岡藩主牧野家代々の墓と、
河合継之助の墓の前に立ち、手を合わせる。
記念館に戻り、車で移動。
光福寺。
長岡藩が本陣を置いた場所だ。
小千谷談判決裂後、継之助は諸隊長をここに集め、
「義によって長岡藩は戦う。」
と宣言したと伝えられている。
小千谷へ移動。
慈眼寺。
前述した、河合継之助と新政府軍の会談が行われた場所。
新政府軍側は、継之助の嘆願書を見ようともせず、ものの30分で決裂したそうだ。
次は榎峠古戦場である。
ここは是非行きたい場所なのだ。
ナビに・・・
えーっと、
ところで皆さん。
ついて来て貰ってるだろうか。
ずーっと、私の自己満足的嗜好が続いている事ぐらい、分かっているのだ。
この時点で、大半はこの投稿から離れられている事だろう。
だが今回は、ここからが話の山場なのだ。
続ける。
ナビに『榎峠』と入力し出発だ。
途中から右に曲がれとナビは指示する。
見るからに心細げな山道だが、疑う事なくハンドルを切った。
そのうち、
道幅はどんどん狭くなり、対向車が来たら例えそれが軽自動車であっても、すれ違い不可能な状況に。
いくらなんでも、これはおかしい。
だが、時すでに遅しである。
Uターンはもう不可能なのだ。
明らかにカーナビは間違えてる。
カーナビからスマホに切り替えてみた。
思った通りだ。
全く違う場所にナビは誘導していたようだ。
いずれにせよ、もう前に進むしかない。
更に状況は悪化の一途を辿る。
舗装すらも途切れた。
それどころじゃない。
これはまだ良い方なのだ。
車幅ギリギリ、一歩間違えれば脱輪もしくは転落という場面が続く。
正に冷や汗の連続である。
イブ・モンタン主演『恐怖の報酬』をご存じだろうか。
知ってる人にだけ言う。
あれだ。
道にはみ出した枝は、ルーフやサイドパネルをギーギーと擦り続ける。
だが、それを甘んじなければ、前へは進めない。
スワローよ、ごめんな。
帰ったら磨いてやるからな。
この瞬間、日本で一番困難な運転を強いられているのは、この私であると確信する。
冷や汗物の運転が40分程続き、
やっと出たぜ!
ナビよ。
これが堅気の車が通る道だ。
よーく、おぼえとけ!
ポンコツカーナビは引退。
スマホに誘導させて、やっとここまできた。
全然峠感はないが、ここが榎峠である。
この榎峠を奪還した長岡藩は、信濃川を挟んで対岸の新政府軍と対峙した。
対岸には司馬遼太郎の記念碑が立っている。
対岸からみた榎峠。
こうやって見ると、峠道だった事が分る。
何だか、疲労困憊である。
近くの道の駅を探そう。
道の駅ちぢれの里 w t
温泉館(900円)を併設している。
走行距離166km 累積走行距離2314km