![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/e0/955a47baf7de993f488604f9d4469d3c.png)
霞ヶ浦への日帰り旅。
コロナ禍、感染対策を十分にして楽しんできました。
本日のお話は、この日のメイン、予科練平和記念館・見学記です。
ずっと行きたかった場所ながら、
このコロナ禍で、ますます遠のいてしまって・・・
でも、朝ドラ「エール」をきっかけに、
今、絶対に行かなくちゃ!と決意したのです。
昨日(21日月曜日)の放送回では、
裕一さんが作曲した「露営の歌」が大ヒットというお話でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/42/d58ff7b899d688765041266bc77c1890.jpg)
「エール」は、ご存知のように、作曲家・古関裕而 をモデルにしています。
当時、古関氏は多くの戦時歌謡を手がけており、
「予科練の歌」こと「若鷲の歌」も古関氏の作曲でした。
再開された「エール」の予告には、明らかに予科練エピソードが・・・
これは急がなくちゃ!・・・
アタクシ、焦りました~
というのも、憧れの場所が、メディアで取り上げられて大人気、
あまりの混雑ぶりに、
泣く泣く、出かけるのをあきらめた経験が何度もあったからです。
調べてみると、予科練平和記念館は、今、十分な感染対策とったうえで
予約入場制をとっているのだとか・・・これなら安心と、すぐに予約、
出かけた次第です。
(当日、予約をしていなくても、入館者数に余裕があれば、
見学できるようでした)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/48/682543e129f49c73dd5e53da08db6859.jpg)
前置きが長くなりました。
まずは「予科練」について、ざっくりと。
「『予科練』とは『海軍飛行予科練習生』及びその制度の略称」です。
第一次世界大戦後、航空機の時代が到来、
旧・日本海軍も搭乗員を育てることに力を入れます。
そのひとつ、昭和5(1930)年に始まった、
14歳から17歳までの少年への教育が、予科練でした。
とにかく、優秀な人材を集め、搭乗員を育てることが急がれました。
これに、古関氏の「若鷲の歌(予科練の歌)」も、一役買っています。
「若鷲の歌」は、映画「決戦の大空へ」(1943)の挿入歌だったのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/27/6c8b79f527acf1f7277e5c354e1bc9e1.jpg)
(画像は版元ドットコムより使わせていただいております)
偶然ながら、
古川隆久『戦時下の日本映画ー人々は国策映画を観たか』(吉川弘文館)を
読んでいると、「決戦の大空へ」の画像が載っていました。
少年と少女と共に、妙齢の男性と女性が並んでいます。
これが、なんと原節子さんと高田稔さん!
どちらも当時を代表する、美男美女の映画スターです。
作品は「海軍航空兵の志願者増加を目的にその養成課程を描いた国策映画」で
文部省も推薦、必見映画として、上映回数を増やしたものの・・・
「大衆を掴む力に欠けてゐた」そうで、興行的には失敗。
それでも、観客の中には、これをきっかけに
少年航空兵を志望した人が増えたそうです。(前掲書195頁)
これ、「若鷲の歌(予科練の歌)」の力も大きかったのではないかな?
アラカンのわたしですら、かつて、ちょこっと聞いただけで、
今でも、歌えるくらいですから・・・歌の力、恐るべし!?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/13/6466f901136875ec6a516a1c366d75b8.jpg)
さて、ここ茨城県阿見町には、
大正時代から霞ヶ浦海軍航空隊がありました。
太平洋戦争開戦後は、全国に予科練の訓練地が増えたものの
昭和14(1939)年に横須賀から移転して以来、
阿見町は、終戦までの間、予科練の教育や訓練の中心的存在となります。
予科練の少年は、全国から難関の試験を突破して集まりました。
(映画の影響を受けても、試験は難しいので合格できるかどうかは別、
過酷です)
終戦までの間に約24万人が入隊、うち2万4千人が戦地へ赴き、
特攻隊員として出撃した人も多かったとか。
戦死者は1万9千人・・・なんと8割にも及ぶそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/c7/51603cb858a4632a922cfa6b36b8698f.jpg)
(予科練平和記念館の奥には茨城県名産・レンコン畑。
その向こうに霞ヶ浦が見えます。)
予科練の多くが特攻隊員になった・・・
戦局の悪化に伴い、飛行訓練を受けても、乗る搭乗機がなくなります。
そのため、空の搭乗員になれるとは限らなかったとか。
結果として、多くの出身者が、いわゆる「特攻兵器」の乗員となりました。
たとえば、特攻兵器「震洋」では・・・
「震洋」って、造りやすい木造(ベニヤ板!?)の小型ボート。
そんなペカペカのボートで、敵艦に体当たりさせるんです・・・
予科練出身者は、「震洋」 で出撃するときに、
なんと、航空服を着て、 乗り込んだのだとか・・・
言葉がありません・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/54/c047c96c057b236590bd2c5db734cb4a.jpg)
(昨夏、大津島の回天記念館にて撮影。)
そういえば・・・と思いだしたのが、「回天」。
去年、人間魚雷と言われた「回天」の記念館を訪ねています。
そのときに購入した「回天記念館と人間魚雷『回天』」によると・・・
やはり「回天」の乗務員は予科練出身者が多かったと書かれていました。
巻末にあった「戦没隊員名簿」145名を数えると、
予科練出身者は33名でした。
しかも17歳から23歳で、大半は10代・・・今なら高校生か大学生です。
だから、ここ予科練平和記念館の庭にも
「回天」の実物大模型↓が展示してあったのだと合点がいきました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/96/5985225f1eb7ce181b0ef66b86acf2e7.jpg)
ああ・・・あれこれ書いているうちに、こんなに長くなって・・・
本日は、時間切れと相成ってしまいました。
肝心の予科練平和記念館については、またいずれ・・・
おつきあいいただき、どうもありがとうございました。
また、お目通しいただければ、うれしいです。
◆参考:
○『予科練平和記念館パンフレット』
○周南市地域振興部スポーツ課編
『周南市回天記念館開館50周年記念誌ー回天記念館と人間魚雷「回天」』
○古川隆久『戦時下の日本映画ー人々は国策映画を観たか』吉川弘文館