MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯1174 子どもを試したがる大人たち

2018年09月25日 | 日記・エッセイ・コラム


 文部科学省では2007年から、日本全国の小中学校の最高学年(小学6年生、中学3年生)全員を対象に「全国学力・学習状況調査」(全国学力テスト)と呼ばれる主要教科の共通テストを行っています。

 同省によれば、その目的は、義務教育の機会均等とその水準の維持向上の観点から全国的な児童生徒の学力や学習状況を把握・分析し教育施策の成果と課題を検証、その改善を図るためだということです。

 一方、この学力テストの結果を教員の給与などに反映させる制度の創設を目指しているのが、大阪市の吉村洋文市長です。

 吉村市長は、9月14日に開催された市の総合教育会議において2019年度の教員の人事評価に大阪府や市が行う学力テストなどを試験的に活用したいという考えを示し、大きな議論を呼んでいます。

 全国学力テストについて文部科学省は、昨年度から都道府県別だけでなく全国20政令市の平均正答率も公表しているところですが、(実は)大阪市はほとんどの科目において2年連続で最下位となっています。

 そこで大阪市教委では、(市長の意向を受け)テスト正答率の向上度を学校ごとに調べ、その成果を校長の給料やボーナス、学校予算などに反映させる仕組みの構築を検討しているということです。

 こうした大阪市の動きに対し、9月23日の毎日新聞は「学力テストでの校長評価案 教育をはき違えた発想だ」と題する社説を掲げ、学力テストの順位に固執する吉村知事の態度を強く批判しています。

 同紙はまず、学力テストの目的は、学力を把握し、分析して教育政策の検証や改善に役立てることにあり、学力テストの成績を上げようと学校間の競争をあおるのでは本末転倒だと説明しています。

 かつて行われた旧学力テストでは、成績の悪い子を欠席させたり試験中に教師が正答を暗に示すなどの問題が生じた。校長が成績アップのために教員にプレッシャーをかけ、教員も点数至上主義に陥って無理な指導をすれば子供との信頼関係が崩れかねないということです。

 また、人事評価が現実に機能するかにも疑問が残ると記事はしています。市教委は来年度の試行を目指すというが、例えば校長が異動したばかりの場合はどうするのか。

 さらに制度論ばかりでなく、そもそも教育は人格の形成を目指して行われるべきもので、市長の発想は、教育の目的をはき違えてはいないかという指摘もなされています。

 学力向上を図るのであれば、(市長として)ほかにすべきことがあるのではないかと記事は併せて主張しています。

 世帯の経済格差が子供の学力に影響することが指摘される中、生活保護世帯が多い大阪市は学力に課題がある小中学校70校にOB教員を派遣している。まずはこうした取り組みを検証し、事業の改善を図ることに地道な注力を続けることが正道ではないかということです。

 さて、今回の騒動を聞いて、(このシンプルな論理が「いかにも大阪らしいな」と感じると同時に)随分前に読んだ絵本作家の五味太郎氏の著書「大人問題」(講談社)の中の一節を思い出したところです。

 五味氏はこの著書の中に、「なんだかんだと子供を試したがる大人たち」と題する(印象に残る)一文を掲載しています。

 大人は子供に対しすぐ試験をしたがる。「実力をつける」「客観的評価をする」などと(もっともらしい)理由が付けられることが多いが、これは自分より弱い立場の子どもをいたぶっているとしか思えないと氏は言います。

 「実力」とは、最後は点数なのだろうか?社会に入っても「点数」で評価されていくとすれば、この世の中の雑さや未熟さには「救いがない」と言わざるを得ないというのが氏の論点です。

 大人が好んで子どもにする訓話のひとつに、女神さまがわざわざ金の斧と銀の斧を持って出て来て、「これがあなたの斧ですか?」と木こりを試す話がある。これなどは本当に意地が悪い話だと五味氏はしています。

 最初から分かっているのに、敢えて試すのが女神さまのやり方なのか。同じように、極楽から蜘蛛の糸を垂らした仏様も、薄汚いやり方で人を試したりする。後から後から大勢が昇ってきたら「俺が終わってからにしろ」と怒るのは人として当然ではないか。こうした訓話には、まさに世の中には「神も仏もない」という感じを覚えるということです。

 日本とは「努力」というものを過大評価する国だというのが、この一文における五味氏の認識です。

 そもそも、日本では大人の暮らしそのものが朝から晩まで頑張ることで成り立っている。頑張って駅に行って、頑張って電車に乗り、頑張って会社に行って頑張って挨拶する。頑張ってなければ認められず、「頑張り料」という形で給料をいただいているかのようだということです。

 当然、学校も「頑張りましょう」「頑張りました」で子どもを評価する。でも、子どもたちはまだ、そんな帳尻合わせをするような人生の時期ではないと氏はしています。

 いつだったか、氏は「大縄跳びでギネスブックに挑戦」というテレビ番組で、記録を達成した瞬間に多くの子供が泣き出していたのを見たということです。テレビの前の大人たちは「成功したから感激して泣いている」と能天気に見ているが、「冗談ではない」と五味氏は言います。

 失敗したら「お前の足が引っ掛かったからだ」「お前が真剣やらなかったからだと」村八分を受けることは間違いない。なので必死に「頑張り」、ただただ終わったことだけにホッとして涙を流した子どもも一人や二人ではなかったはずだということです。

 「たかが縄跳び」と言っても、そこには大きな罪がある。教師は(多分)「皆が心を合わせて一つのことを成し遂げた」「子供たちは成長した」「それを自分がリードした」と誇りに思っているかもしれない。しかし、「全体がひとつに動くことが大事だろ」と言われたら反論できないような重たい空気の中で、「個」がとってもしんどい思いをしているのを感じざるを得ないというのが氏の見解です。

 大人が子供を試している。そして思う通りになればそれで大人たちは満足する。学校給食でニンジンを食べられない子どもが居残りさせられるのも、宿題を忘れた子どもが叱られるのも、一言で言ってしまえば「先生の言う事を聞かない」からだと氏は言います。

 結局、親も教師も「自分の命令に従う素直な子どもに育てたい」という思いがあって、それが強ければ強いほど子供には出口がなくなる。(もっと自由にのびのび日々を送れるはずの)子どもたちは学校や親の都合によって様々な形で試され、そのプレッシャーに応えようと身を削って「頑張る」ようになるということです。

 果たして、学校の都合で学力テストに臨む子どもたちはどうなのか。「私の査定が悪いのはお前のせいだ」と、担任の教師や校長から疎んぜられるようなことは絶対にないと言い切れるのか。

 大人が子どもを試していることをすごく不快に思うと、五味氏は繰り返しこの著書に記しています。特に、学校における「よくできました」「がんばりましょう」という構造自体、何とかしてほしいということです。

 誰のための、何のための教育であり、学校であり、試験なのか。全国学力テストを巡る今回の大阪市の取り扱いの議論には、そこから抜け落ちてしまっている大切な視点があるのではないかと、私も五味氏の指摘から改めて感じたところです。



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