MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#1926 いつまでも「弱者を助ける」という制度でよいのか

2021年08月05日 | 社会・経済


 今年5月の1か月間の生活保護の申請件数が全国で1万8400件余りとなり、前の年の同じ月と比べて419件、率にして2.3%増加したことが分かったと8月4日のNHKニュースが報じています。

 新型コロナウイルスの影響が続く中、生活保護の申請件数は前年同月と比べ今年の3月まで7か月連続で増加していたということです。4月に一旦減少したものの5月には再び増加に転じ、全国の生活保護費の受給世帯は163万8591世帯(人数でおよそ210万人)と、前の年と比べて2300世帯余り増えたとされています。

 こうした状況について厚生労働省は、「新型コロナウイルスの感染が急拡大し、4回目の緊急事態宣言の影響で生活が追い詰められる人が増えるなど、状況は深刻化するおそれがある」と話しているということです。不測の事態に伴う経済状況の変化は誰にでも起こり得ること。政府や自治体による支援策は様々に講じられているものの、今回のコロナ禍の影響で困窮状態に陥った家庭がそれだけ多かったということでしょう。

 併せて厚生労働省は、ホームページで「生活保護の申請は国民の権利です。生活保護を必要とする可能性はどなたにもあるので、躊躇わずにご相談ください」とメッセージを発信していると記事は伝えています。

 こうした(コロナ禍のような)「いざと言うとき」にこそ活用されるべき生活保護制度ですが、日本では何かと批判の対象となることで、制度の利用に抵抗感を持つ人も少なくないと言われています。実際、NPOなどが行っているコロナ禍での生活困窮者支援活動においても生活保護制度の利用には忌避感を示される場合が多く、相談に訪れた生活困窮者で制度を利用している人の割合は約2割にとどまっているということです。

 制度が有効に機能していない日本のこのような現状に関し、相互扶助などの社会政策に詳しい慶應義塾大学教授の井出栄策氏が公明党機関紙「公明」(2021.8.1)に、「幸福の裾野広げる弱者を生まない社会」と題する興味深い論考を寄せています。

 「生活保護」には「護(まもる)」という文字が入っているが、気が付けば福祉業界で使われる「介護」や「養護」、「看護」などの言葉にはことごとくこの文字が充てられている。誰だって歳も取れば病や不幸にも見舞われるのに、どうやら僕たちは誰かに守られ、生きさせてもらわなければならないらしいと井出氏はこの論考に綴っています。

 困っている人を助けてあげるのは良いことだ。でも、自分が助けられる立場だとすれば、その見え方は180度変わってくると氏は言います。誰かの厄介になって生きていくのは息苦しく、後ろめたい。社会福祉はまず、この当たり前の視点から出発する必要があるというのが氏の指摘するところです。

 日本の社会には独特の勤労観があると氏はしています。母子家庭の母親が働きに出ると、貧困率は上がってしまう。これはパートを掛け持ちしてもらえるお金よりも、生活保護の方が額が多いからだと氏はしています。それでも、(働くと貧しくなることがわかっているのに)日本の母子家庭の親の就労率は先進国でトップクラスを維持している。フランスやスウェーデンでは有資格者の8~9割が制度を使うのに、日本の利用率は2割にも満たないということです。

 この国では、明治以来の「惰民観」、つまり「救済は人を駄目にして、怠惰な民を生み出す」「救済は特別なものであって、自己責任と自助努力で生きていくのが本来の姿」という考えが、今でも(現役として)息づいている。自己責任で生きていけない人は「道徳的な失敗者」とみなされるために、これを嫌う多くの人が歯を食いしばって貧しさに耐えているというのが氏の認識です。

 人様の御厄介になること、施しを受けることを恥とみなす僕たちは、皆勤勉に働いている。そして、様々なものを我慢し諦めながら、「人並みの暮らし」に踏みとどまろうとしていると氏はこの論考に記しています。

 しかし、こんな状況では、中間層の関心が低所得層に向かうはずがないというのが氏の見解です。なぜなら、まず優先すべきは、どこかの誰かの暮らしよりも自分たちの暮らしの防衛ということになるから。そして、自分が必死に頑張っていればいるほど、(何かに頼って)頑張っていないように見える人間への反感は強くなるということです。

 敢えて言ってしまえば、この社会は困っている人たちへの優しさをなくしてしまった社会だと、氏はこの論考で訴えています。
 生活保護の充実や格差の是正がいくら正論でも、それは政治的には受け入れられない。左派は格差の是正を繰り返し口にするが、変化した社会の価値観を無視して正論を訴えるだけなら、それはただの願望の表明に過ぎないということです。

 それでは、どこに突破口があるのか。井出氏はここで、「ベーシックサービスの無償化」という視点から、一つの提案を行っています。

 ベーシックサービスとは、医療や介護、育児、教育、障害者福祉、住まいなど、人間が生きていくうえで不可欠な基本的サービスのこと。これらを無償化することで、「弱者を助ける制度」か、ら「弱者を生まない制度」へと福祉の裾野を大きく広げていくというものです。

 誰もが必要とし得るサービスを所得制限をつけずにすべての人たちに提供し、「護る/助ける」の政策を終わらせる。これが実現すれば、生活保護で「救済」される領域は格段に小さくなり、反対にサービスを利用する権利の領域が大きくなると井出氏は説明しています。
 誰もが堂々と(無償で)病院に行き、介護を利用し大学に行ける社会。それこそが、まさに「弱者を救済する」仕組みから「弱者を生まない」仕組みへの転換を意味しているというのが氏の指摘するところです。

 さて、井出氏の提案は、一見すると理想論のようにも聞こえますが、ヨーロッパなどの先進国では、実際にかなりのベーシックサービスが既に無償化されていることにも気づかされます。
 もちろんそこには「財源論」という大きなハードルがあるのも事実でしょうが、日本が今後目指す社会の在り方について議論する際には、当然入ってくる視点ではないかと私も改めて感じたところです。



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