♯95 囚人のジレンマ

　１９５０年にアメリカのランド研究所のメリル・フラッドとメルビン・ドレシャーの二人が考案したゲーム理論に、「囚人のジレンマ」というものがあります。ゲームの参加者個人個人にとって最適な選択が、実は参加者全体の最適な利益にはつながらないことを示唆する良く知られたモデル理論です。

　ある事件で警察から共犯と目されている二人の被疑者が別件で逮捕されました。二人の被疑者が完全に隔離された上でそれぞれ刑事から取り調べを受けている場面を想定してください。そこで刑事はそれぞれの被疑者にある司法取引を持ちかけます。

　お互いに黙秘を守れば証拠不十分で二人とも起訴猶予ということになるだろう。しかし、お前（被疑者）が裏切って自白すれば、相棒を首謀者とみなして全て責めを負わせ、お前は無罪放免ということにしてやろう。ただし、相棒にも同じ話を持ちかけている。もしも二人のどちらもが自白すれば、二人は共犯ということだ。そうなれば少しは刑も軽くなるだろう。話すも話さないも、決めるのはお前次第だ。さあ、どうする。

　さて、こうした状況におかれた容疑者は疑心暗鬼に追い込まれ、必然的に自白に傾いてしまうという理論です。

　 実はこの設定（囚人のジレンマ）では、相手が協力しようが裏切ろうが、自分は相手を裏切った方が得をするという計算が既に成り立っています。

　自分が裏切って相手が裏切らなければ自分は無罪。その場合、相手が裏切っていたとしても共犯ということで情状酌量かなされます。しかし、自分が相手を信じて裏切らなかった場合、相手も裏切らなければ起訴猶予となりますが、そこで相手が裏切ったとしたら全てが自分の罪となり自分ばかりが首謀者として極刑を受けることになります。

　人間は計算高い生き物です。二人がお互い相手を信頼すれば相互に得をすることが分かっていても、自分の損得を瞬時に計算し相手を裏切る。そして結果的に互いに低い利得に甘んじてしまう。それが人間にとっての合理的な行動だというものです。

　実は、国と国との関係においてもしばしば同じようなジレンマが生じます。たとえ二つの大国の利害に相反する部分があったとしても、両国がともに軍備をなくせば軍事費もかからずお互いに平和に繁栄できることはわかっています。しかし、現実には相手国を信じられず、自国の利益を追うばかりにそれぞれ国が倒れるほどの軍事費を供出して強大な軍備を競い合い、なおかつ国民を危険にさらすことになってしまいます。

　また、身近な所でも、例えば同じ商店街に同じような商品を売り、商売敵としていがみあっている二軒の商店があったとします。双方が特売を仕掛け安売り合戦を続けていたとしてもどこか値下げを止めれば共存できるにもかかわらず、商品の質を落としてまでやみくもに値下げ競争をしたあげく、最終的にはお客も離れて共倒れになったりするのです。

　こうした「囚人のジレンマ」において、犯人がお互いを裏切ることにより最も利益を得るのはもちろん「警察」です。そして経済の世界では、多くの企業が競争し互いに低価格をつけあう中で一定の均衡が得られることになり、結局消費者がもっとも利益を得るとされています。いわゆる「市場原理」と呼ばれるものは、実はこの「囚人のジレンマ」によって成り立っている原理ということです。

　不信感に端を発するこうした競争は、ゲームに参加するメンバーに最大の利益はもたらしません。しかし、信頼を伴った適正なルールの下での競争はメンバーのパフォーマンスを最大限にし、その結果として、第三者に大きな利益をもたらすことになります。

　一方で、株や債権をはじめとした市場における相場の暴落や暴騰は、概ねこの「囚人のジレンマ」が原因になっているとも言われています。

　メンバーの皆が密かに値上がりを期待する中で、自分だけが儲けようとするから価格が暴騰する。一旦急激な上昇が始まると、自分だけは馬鹿を見たくないという一心で、今度は皆が裏切り合ってどんどん暴落してゆくことになります。

　長い歴史の中で、人類は一体何を学んできたのか。一見合理性を欠くと思われるような人間の様々な行動も、こうした心理に裏付けられているということが分かります。結局、人というのはあまり進歩のない生き物なのかもしれません。