12・6・22
軟酥(なんそ)の卵
自覚がなくても身体の内部では変化しているものがある。
さらに変化そのものが、ある意に沿って編集されている…
昨日、ブログにこんなことを書きました。
直木公彦著「白隠禅師健康法と逸話」(日本教文社)に紹介された
軟酥(なんそ)の卵を連想しました。
ガチョウの卵大のありがとうのトウが3匁配合された有難い軟酥の卵を想定、
頭に乗せてしばらくすると
軟酥の卵が体温で溶け、患部に浸み込んでゆく…
溶け切ってすっかり浸み込んだ頃には体がすっかり恢復している。
そんな話が紹介されています。
この本を読んだのは2,30年前です、
「そうだろうなァ」程度に同感、話のついでに、このことを時々しゃべった、試したことはありませんでした。
今年1月末、ふっと、
「想像すること自体が力なのかも知れない…」
と考えました。
2月1日から3月31日までの60日間、豆本小説と称して3枚以上の掌編小説を書きました。
テーマを決めテーマに沿って連想し、想像したことを物語に書く。すると、
私の体の内部に動き出すものがあるような感じがしました。
少し乱暴を承知でいえば、命が動きだした、のじゃないか?
何もなければ動かないもの、それが命でしょう。
ガソリンエンジンに例えれば、ガソリンと空気の混合気体が圧縮されて点火されて爆発、
排気して力がピストンに伝えられる。
因みに混合気体の容量がエンジンの能力を表しますが、
吸入量ではなく排気量というところが何とも哲学的に思えます。
命をエンジンに例えれば、想像力?そのものでしょう。
想像力って想像する力を想像力と思っていました。
想像することそのものが既に命を動かす力なのです。
想像した方向へ命を動かす力がある。
生理人類学が指摘する生理的変化は命そのものの活動の一端を捉えているに過ぎない。
生理的変化に連動して動くものがあるように思います。
因みに集中力とは集中する力、と解していました。
集中すること自体が既に力を発現している、そう解釈しています。