昭和18年の阿蘇道場日誌より
一月九日 晴
数日前飯島先生の作業の時間、先生の「世の中の指導者になり得る自信のあるもの挙手すべし」の言に手を上げたもの文科一年生八名、理科一年生八名、合計十六名(天藤、栗原、森、上野、辻、山根、岩永、牧、安田、荒牧、尾畠、カケハシ、林、郷、石田、白山、)に対し然らば実際に於て、その実の真偽を試さんと本土曜より、明日曜にかけて、内牧町内一円を試験の道場として、その行動を試すべく、午後二時龍田口発仝三時半内牧着、理科二年三組高橋も自己を試して見るべく又先生のお手伝いをさして戴く可く、同行す、龍田口駅を出発する際にも、内牧駅に到着した際にも先生より種々の御注意があり、
指導者であると云うことの意味、八紘一宇とは其処、処との者とに完全に一体になり切る、総ての利害、得失、悲喜が、融通して完全に自他の区別が区別でなく、すらすらとで行ぜられることなど、色々お話になる。
丁度内牧駅に下車した処がプラットホームに一組の老夫婦が八つの大きな荷物に手をこまねいて困っている。吾等一同気がつかなく看過して行く、飯島先生も之を逸早く認めて、その荷物を吾等が運ばせて戴くことを申し入れらる。
此所に於いて先ず吾は指導者たるの資格に見事に落第、「知らずに気が付かず通り過す」と云うこと、即ち「人の困難がそのまま自己の困難にならない」と云うこと自他が完全に離れていることの実際を見せつけらる。持って上げたくならかから、持たなかったのではない。気が付かないのだ。即ち吾々が所謂坊ちゃんだからである。とにかく飯島先生の御指示に依りその荷物を内牧町の老夫婦宅まで届ける。
その後一同は内牧町にある火山温泉研究所に集合、七時の夕食まで約一時間各自、町内の民家へ行き、夕暮の多忙を少しでもお手伝いする可く出かくお寺へ行くもの、宿屋へ行くもの、一般民家に行くなど、一同、真面目に本化して約一時間後再び同研究所に引上ぐ。此処の所長南波さんの御親切に依り玄米食を戴く事であったが、近所の町内の方々からお米を戴いたので所長奥様仕方なくそれをたいて下さる。}(注;先生方の昼食の事也)一同空腹だったので、夕食のタクアンをも全部戴いてしまった。食後高橋一同に「何故吾々は御飯を戴かねばならぬか、何のために吾々は生きているか」を真剣に答えたことがあるかと質問す、一同唯沈黙、夕食後は梨が与えられた。それは先程、老夫婦の荷物を運んで上げたためだろう御礼の一端をとお与え下さったものである。
吾々は此所に求めずして自然に戴く迄と知る。果を求めず他のために自己を行じ盡すことの有難さがわかるのである。これから一同は町営温泉に沐浴し、九時頃四方に別れて各町家に投宿す。杉原様方(天藤)、得能薬店(栗原、上野、森)、寺本雑貨店(辻山根)、二の宮文具店(岩永、牧)、満徳寺(安田、荒牧、広島、カケ橋、林、郷、右田、白山、高橋)、今宵から順転まで其処を道端として頑張るのである。
客人ではなく其処の家庭人、家族に完全に成功することが果して出来るであろうか、そしてとゆとりとを以て充分タを生かす仕事が進歩して出来るであらうか。
自分たち五高生は将来の日本を背負う指導者になるべくエリートであるという考えに終始しているのはこれが軍国日本に導いた思想であるということを学生時代から考えていたのだろう。現代の日本の高等学校の学生で将来日本の指導者になることを考えているものはどれだけいるだろうか?