昨日は熊日教養講座小山先生の「五高と近代日本・・・大正デモクラシーと武夫原人脈第7回として行われた。今朝なそのメモを取っていたものをそのまま転載することにした。
大正7年の高等学校令、大学令公布に伴って、新たなスタートを切った旧制高等学校では帝国大学への予備門コースとしての位置づけを残しながら未完の大器を育てるという教養主義すなはち人格形成であった。大正12年当時は世は大恐慌に入り日本社会には激震が走っていた。
生徒たちは自由な教育環境の中にナンバースクールの伝統でもある教養主義を規範にしてスポーツや文学などに熱中していた。この時代の様子については竹内洋京大名誉教授の「教養主義の没落」のなかで「大正時代に定着した旧制高校の教養主義は、マルクス主義やその実践と無縁ではなかった。
五高に社会思想研究会を設立し東大新人会で活躍した。民族派の論客であった小説家林房雄に焦点を当てながら左傾生徒のひたむきな青春を追いかけてみた。林房雄の人物像は明治36年5月30日に大分市に生まれ父親は雑貨商を営んでいたが破産したので母親は紡績工場の女工として働いていた。林は旧制の大分中学から五高へ入学した。中学時代から非常に秀才であった。大正12年東京帝国大学政治経済学科に入学したが、社会思想ばかりの研究に没頭していたので中退している。学生組織「新人会」で活躍中に大正14年京都学連事件に連座したので検挙・起訴され、禁固10ケ月の判決を受ける。服役中に小説「林檎」を発表しプロレタリア作家として出発した。文学界を創刊し中間小説を発表、家庭小説を書き流行作家になった。戦後は大東亜戦争肯定論を発表、三島由紀夫自決後には「追悼本」を執筆し「憂国忌」の道筋をつけている。獄中生活から転向し民族派の論客として「美しい日本たれ」を表した。日本の中心は天皇制であるとして戦争を無駄死にを考えている人々から見れば大変喜ばれた。
林は大正11年9月新人会に参加という塩梅になっているが年譜の中ではもっと早い時期のようである。五高時代白川の瀬渡しに下宿していた。そこへ東大新人会で活動していた黒田寿雄、志賀義男等の東大新人会の連中が来熊し訪問している。目的は7月東京渋谷でひそかに結成された第1次日本共産党の指導を受けて11月7日に迫ったロシア革命記念日に向けての五高の活動分子いわゆるオルグの社会主義運動の進め方を協議することであった、林の後輩田中稔雄も参加していた。地方高校と新人会、三高では新人会の黒田寿男、志賀義男、友岡久雄がロシア革命を説き講演に感銘した生徒たちは三高社会問題研究会を創立し、閉会の後に創立宣誓文を発表しその内容は全て生徒自身が行うというものであった。