五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

昭和18年度の学校教練査閲日程

2013-01-29 03:34:58 | 五高の歴史

此処で昭和十八年の五高の査閲を取り上げたのは、調査で十八年の六月何日に実施されたのか確認が出来なかったので?日としてぼかしていたがひょんなことから昭和十八年度学校教練査閲日割表を発見した。

五高七十年史に著者高森先生が昭和三十二年発行の「竜南への郷愁」、五高七十年史に昭和十八年の査閲事件に鑑み、昭和十九年の査閲は学校全体が昨年の汚名を?とり返そうと努力していることが語られている事は下段に掲げる。

習学寮総代日誌から・(前略)偶々山口?陸軍少将なる熊本第六師団兵務部長が来校して一場の講演をなしたが、その態度は恰も軍部から高等学校を説教するが如き態度で、かねがね軍人に反感を持っていた五高生にとり甚だ傲慢に見えた。・・・(以下中略)・・・・曰く、「或達も大臣になろうなんて野心を抱くな」と、そこで満場一同噴笑したので、彼は激怒して叱咤する等の乱態・・・(後略)

 昭和十八年度学校教練査閲日割表の件通牒
昭和十八年六月十一日        熊本師団長  萱嶋  高
第五高等学校長殿
  首閲の件別紙の通り定めたるに付承知相成度通牒
     別紙
   昭和十八年度熊本師管内教練日割表      熊本師団司令部
 査閲官   陸軍少将      山口信一
 六月二十八日  月     第五高等学校
    三十日   水      第七高等学校
 七月  六日  月     熊本医科大学学部、専門部
 八月二十五日  水     熊本高等工業学校
   二十七日  金     熊本薬学専門学校
              以上関係必要事項だけを記載し他の学校は省略


そのため昭和十九年度の査閲ではこの汚名を?晴らそうと学校側も努力したことを高森先生の執筆から転載する。続習学寮史P136から・・・
 学校長や、配属将校は何と考えたか、今年の査閲には、私に、総指揮官の役目を果たしてくれ、との懇願である。とんでもないことだ、陸軍大佐でもやりにくいことが、どうして、半教育補充兵の私如き者に出来よう、固より私は言下に断った。けれども添野校長と深草大佐の懇望は、いよいよ切実である。私は已むを得ず生徒一同を武夫原に集め、哀情を披瀝した後遂にわれを折って受託した。決して自慢ではないが帯剣抜刀して小部隊ながら指揮した経験がないでもない。中学時代は、中・小隊長にもなった。五高時代も小隊長となり、時には中隊を指揮したり、当時、全龍南人から心服されて居た。吉弘《寛徳》大佐指揮の下で、全校一部と二部三部からなる二箇大隊の旗手を命ぜられて、旗の位置を心に留めたことも幾度かある。けれども、三十年近くも以前のことである。大学院時代に受けた徴兵検査の時は、固より甲種合格と信じて居たのに、体格検査では誉められながら、以外にも、鼻疾の為とかで第二乙種に落とされてしまった。勉学にも差し支えないのに、と思わぬでもなかったが、それも時勢の然らしめる所とでも云おうか、但し、私はそれが気になって、ある人から添書を貰って九大の久保博士の診察を受けた。”大したこともないが折角来たから“、とのことで即日入院して、鼻柱核の手術を受けたものである。ともかくも、かかる閲歴の私が、無謀にも、引受けたことに就いては、定めし、いろいろと批判されたことだろう。私は考えた。ただ一生懸命に自分で出来る限りのことを、やるだけだ。私の足りない所は、必ずや全部隊の生徒たちが、適時補ってくれるに相違ないと予行演習も、必要でないと申したが、一度だけは是非との大佐の希望で、已むなく、それに従うこととし、一千の健児に向って、端的に徴哀を吐露した後、壇上に立って査閲官の真似事もした。かくて、一未教育補充兵総指揮の下に行われた査閲の結果は、幸いにも前年の不評をとりもどして、好評は、良。学校長も、配属将校も、ようやく安堵した。而してそれは又、青年学徒の、特に伝統に輝く竜南学徒の、真面目でもあったのである。