五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

新年会と天草小唄の解説

2013-01-08 04:08:07 | 五高の歴史

1月12日の土曜日と23日の水曜日には、卓球とさわらか大学の新年会をせねばならない、いずれも俺が主体で幹事、司会である。出席者は卓球が18名さわやかが24名とか・・・

懇親会でもただ酒を飲むことばかりに集中しても面白くないと感じどうしたわけか、50年昔を思い出し天草小唄「夢の天草」を現代風にアレンジして解説を作った。

50年昔と言えば天草はまだまだ汽船で行かねばならない時代であった。

私が熊本大学へ入学したのは昭和31年であった。その当時は天草五橋など夢のまた夢で天草へ行くには三角から船で本渡港へ行くのが当たり前のことであった.

そうして本渡港のバス停から天草各地へ移動するのである。

しかしこの時代に熊本大学理学部臨海実験所はすでに建設されていた。臨海実験所の建設は昭和29年であった。そのためここに赴任する教官のためには無料の職員宿舎が2棟用意されていた。

天草五橋が建設されたのは何時であったか、記憶は薄れてしまったが、私が熊大職員として就職したのは昭和35年であった。この時には学内施設見学で同期の採用者共々見学に来たことがあったが・・。

昭和42年4月会計課管財係に配置換えさせられると同時に俺の天草行きは始まり大学に於ける不動産屋の始まりであった。

また天草架橋の計画が発表され工事が始まったのは昭和37年で五橋の完成は41年の9月であった。

そのためこの臨海実験所は五号橋の入り口に存在するようになっていた。五橋は天草パールラインと命名されロマンの島も身近で観光ができるようになった。

五橋を渡った天草行きは理学部の公用車を使い全くの天草へのドライブであった。

     「波に揺られて不知火消えりゃ

       朝日ほのぼの有明そめて

        此処は天草あの切支丹

        悲し殉教の夢の島」

寒さを知らない海辺には常夏の国である,四面海に囲まれた静かな海と歌われる天草は北に雲仙岳、東に阿蘇山を望む位置を占め大矢野島、上島下島等々百二十余りの島より構成されている。

        「雲耶山伽と山陽が詩に

         洋の彼方に夕日が沈みや

         優し巴の白洲の腕に

         抱かれて眠る袋湾」

 

        「温泉白鷺ドライブ疲れ

         明日牛深今宵は崎津

         熱い情けの一夜を明かしゃ

          出船別れの涙雨」

真白砂浜を見る下田はあまくさ唯一の温泉郷である、天草南端には二つの教会があり外国人の伝道師が居る。一つは崎津であり此処こそ温泉で貯えたエネルギーを放出して朝帰りは鰯くさい牛深の港から三角へ帰るのであった

 

天草市とは

平成18年3月本渡市・牛深市・有明町・御所浦町・倉岳町・栖本町・新和町・五和町・天草町・河浦町の2市8町が合併し誕生した天草市は、熊本県南西部に位置し、藍より青くとテレビドラマでもあった舞台で

あった。周囲を藍く美しい海に囲まれた天草上島と天草下島及び御所浦島などで構成する天草諸島の中心部に位置して面積は、683.07平方キロメートルで県内最大を誇っているとか。

天草は島と言っても地形は、そのほとんどが山林で占められ、急峻で平野部は少なく、河川沿いの平地部や海岸線の河口部に市街地や農地が拡がり、市街地を結ぶように海岸線沿いに国・県道等が配置・整備されている