五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

立田山山荘東光会発祥地の説明

2013-01-28 04:31:14 | 五高の歴史

 龍田山の五高東光会の発祥地立看の説明文
九重之塔建立由来記 

元禄15年、赤穂義士四十七名が主君の仇を討った時、大石内蔵助外十六名は、細川家お預かりとなり、その応接方を命ぜられたのが、御使番として禄二百五十石を受けていた堀内伝右衛門であった。伝右衛門は深く義士の志に感銘し、昼夜、心を尽くして親切に接待した。藩主細川綱利は深く之を賞し、褒美として伝右衛門が江戸勤務を追えて熊本に帰任したとき、立田に隠居用屋敷を作って下賜された、その後堀内一族が居住し、堀内屋敷と言い伝えられていた。伝右衛門は2~3年間この屋敷に住んだと思われるが、病を得て宝永6年10月、本人の知行地である山鹿に隠居した。伝右衛門は所謂世に伝わる「堀内伝右衛門覚」を手録したが享保12年8月26日、八十三才にて死去、夫妻の墓地は山鹿市の日輪時に祀られている、なお、伝右衛門は藩主綱利に懇望して、十七義士の遺髪を下与えされ、日輪時に遺髪塔を建てて手厚く供養した。

伝右衛門が立田の隠居用屋敷を出た以後の資料は残っていないが、その後約200年にわたり、代々、堀内家一族が十代余にわたり居住していたことは間違いないようである

堀内家最後の住人は堀内藤太は、明治二十二年所有権の登記をしているが、明治三十四年旧藩主細川護成に屋敷を譲渡、返却したことが登記簿に明記されている。また藤太がこの地を出たことは、このあたり一帯を水田化しようと北側に貯水池を作り、計画したが地下水が出ず、また雨水もたまらず失敗したためと伝えられている。大正15年には細川護立つが家督相続によって所有権を登記している。

木炭焼業をしていた石田民治郎は熊本県の木炭品評会で優秀賞を受けたがその技術が時の細川家の家令、長岡岩之助に認められ明治36年この屋敷に入居し、細川家の茶室用桜木炭及び一般燃料木炭の製造に当った。

この頃、近くの第五高等学校の生徒は、当屋敷一帯がまるで桃源郷の如く閑静で風光明媚なるを見て、勉学には最適の理想的な場所と考え、二階の一間を寄宿舎として是非入居させてもらいたいと申し入れ、五高生が2名あて次々と入居し、夜は石油ランプの灯火の下で勉学に励んだ、その中には40年英法科卒の宇佐美莞爾がいた。彼は東大卒後満鉄に入社し理事になり、後、昭和14年華北交通の初代総裁になった。また東大教授 後法大総長になった経済学者、大内兵衛もここで勉学した。
なお、五高十一代校長添野信はこの地の美しい景色に感銘し 山花開似錦 沼水流如藍 と詠んでいる。また山荘を出る時ある学生は 山静如太古 と書き残している。

第一次世界大戦終了後の大正末期は世界的大不況に見舞われ、木炭価格は大暴落し、石田家は倒産寸前に追い込まれたが、宿泊していた東光会学生は鳩首協議を行い、明治末期の先輩達にも激を飛ばして救援金を募集して石田家の倒産を防止した事は、誠に有難く感謝に堪えない所であった。かくして石田家は木炭焼を止めて農業に専念するとともに、長岡県令の指示によりこの付近一帯の細川家の杉林の管理に当った。かくして空家となった木炭焼作業員の部屋に新たに2名の五高生が入居した。障子が破れ、月の光が差し込むようなあばら家で、幣衣破帽、夜は石油ランプの投下の下で、勉学に励んだ、さらに入居希望者が増加したので。屋敷内に6畳2間の屋根は竹林葺きのあばら家を建て、2名の学生が入居した。

大正時代になると、わが国にも社会主義思想が急速に広がり、学生の間にも社会主義熱が盛んになり、五高にも社会科学研究会が作られて、大いに気勢を上げていた。
これに対して社会主義思想に疑問を持つ学生も多く「我々はもう少し胸元を見つめて、日本精神の良い所、東洋思想の学ぶべき所を探求しようではないか、物質より精神面を勉強しよう」と言う学生が集まり、東光会が同志六十七名の結合を以って、大正十二年三月七日結成され、此の屋敷を「東光会立田
山荘」と命名、東光会の本部として、活動することとなった。本部においては、大思想家である安岡正篤、大川周明、笠木良昭、高森良人、鈴木登等を招いてその指導を受け、又時には山荘前の草原でコンパを行い、天下国家を憂い論じ、或は放歌高吟して青春を謳歌した。
かくて東光会は、五高においては社会科学研究会に対立する特異な研究会として注目を集め、会員数も漸次増加していった。
然しながら大東亜亜戦争の勃発により万事一変し、終戦前には当地一帯には陸軍部隊が疎開駐留し、終戦後の昭和二十四年、学制改革により東光会は自然解消の運命を辿るに至った。

この間に、会員数は百七十七名に達し、指導的立場についた人々が多数輩出して、日本の社会の発展に大いに貢献したことは特質に値する。因みに著名なる人々を列記する。
星子敏雄(熊本市長)円佛末吉(大牟田市長)広瀬正雄(日田市長、衆議院議員、郵政大臣、江戸時代の儒学者広瀬淡窓の曹孫)江藤夏雄(衆議院議員、佐賀の乱江藤新平の孫)幡掛正浩(伊勢神宮少宮司)納富貞雄(佐賀工業高等学校長、広瀬淡窓の著名な研究家、東光会幹事)

五高九十年祭を機に昭和五十五年五月五日、この地で東光会会員のより東光会記念碑が建立された。高森良人先生の「東光会山荘回顧」の漢詩と、徳富蘇峰先生の「東光会綱領鉄則」が刻まれている。

なお、堀内屋敷は昭和三十三年、建造以来約二百五十年を経過し老朽化甚だしく、住居に耐えなくなったので以前と同様の構造で改築、復原したが、平成五年になり様式家屋を新築した。しかし屋敷内には昔同様、楓、桜、椿、木犀、柿、樫、榊、柚等の巨木、老樹や鬱蒼たる孟宗竹林が繁茂しており、往時の様子が髣髴として偲ばれる。


東光会綱領鉄則
本会は日本精神の真髄を体得し東洋人として自覚を把握し以て社会人として其本念の生活に生きんことを期す
一 義に当りては一身を顧みず必らず履み行う可き事
一 会員相互の間毫厘の妥協腹蔵ある可からざる事
         昭和二年吉日  蘇峰老人  応需書之


東光会山荘回顧
輯睦(しゅうぼく・沢山の人が集まって睦ましくする)す八俊(はっしゅん・八人の優れた学生) 癸亥(きがい・みずのと猪大正十二年)の年
青春孰(たれ・誰か)か真詮(しんせん・まことのさとり)を望まざらんや
倶に謀りて講ぜんと欲す陽明学(ようめいがく・王陽明の唱えた儒学の一派、良知をみがき知識と行動を一致させることを主張した)
斎しく議りて為らんと期す良知の賢
旦夕(たんせき・朝夕)山荘にて自主に孜め
時々名世(めいせい・一世に名が顕れる賢人、大川周明、安岡正篤、満川亀太郎氏等を指す)を招きて
渕泉(えんせん・淵と泉、深い人格識見を意味する)に浴す
規箴(きしん・規はただす、筏はいましめ東光会綱領鉄則を指す)裏に在り


蘇翁(沿おう・徳富蘇峰翁)の筆
後進碑に刊す豈偶然ならんや
庚申(こうしん・かのえさる昭和五十五年)首春八七叟楠軒(高森良人のこと創立以来顧問として指導を受ける)
毫厘(ごうり・すこしわずか)             以上 

 

 

東光会とはマルキシズム華やかなる頃これに対抗して「光は東方より」を叫んで結成された東洋研究団体で国粋主義傾向を表して活動した会である。この後マルキシズムは没落していったが社会科学研究会などすぐ解散の憂き目にあっているが、時節にマッチした東光会は活発になり活躍して五高が閉校になる昭和25年まで続いている。

昭和14年2月1日寮内のコンパで議論は大いに進んで東大の河合、土方両教授の問題に及び学問の絶対自由をといて軍官の思想的弾圧を痛感して祖国の前途を思い半ばに過ぎるものありとなす者があり、国家の大学において教壇に立つ以上、その国家に弓引く思想態度は許されぬといい、言論と思想を巡って論議が戦わされた。この日も河合教授に対して法学部学生がとった態度にたいし論ぜられたが遂には現今の教育制度そのものを恨むという結論に達している。

この言論に対する干渉は中央の方針であり、五高内でも行われていた弁論大会において出演者はあらかじめ原稿を生徒課に提出して検閲を受けねばならなかった。寮報の原稿も編集前に生徒課の検閲を受け、発行後は特高へ提出しなければならなくなっていたのである。