五高に出来た所謂高等師範学校である。第十三臨時教員養成所関係の資料をそれとなく眺めていたところ遥か70年昔の小学校の時代の担任の先生の名前が目に付いた、そこで臨時教員養成所について一寸纏めてみようかと云う気になって、まず五高五十周年史を読んでみると、第十三臨時教員養成所については、ここの卒業生は卒業時までには五高の教官にお世話になっていたが卒業後は五高同窓会等とは全く無関係になり消息不明で音沙汰がないようなことが記載されていた。
まず第十三臨時教員養成所の卒業生の概略を眺めてみると、卒業生の総員は昭和四年数学科卒業二十七名、昭和六年国語漢文科卒業二十五名、昭和七年数学科卒業二十八名の八十名である。一方入学許可者は三十五、二十五、三十名の九十名を採ってあったのだが在学期間三年間を全う出来た者の少なさを感じた。五高の学校一覧では昭和九年と翌十年までここ第十三臨時教員養成所の卒業生を追跡調査してある。
昭和四年卒については文部省への報告書では就職口が多く、断るのに苦労し大変であったようなことが報告されている。昭和五年の一覧では全員中学校の教師になっている。しかしその中の一人は早くも昭和九年の時点では卒業生名簿から既に行方不明になっている。
昭和六年の卒業生は国語漢文科であるので全員国語の先生であるが、そのうちの十二名は高等師範卒業の肩書きでの小学校の教員になっている。また卒業生の一人は九大へ進学している。就職先の学校の場所は当時の朝鮮と満州へ各一名、国内では大阪三人、千葉と神戸そして岡山へ各一名、九州では福岡県、佐賀県、宮崎県、鹿児島県に各一人、県内には七名が就職している。
昭和七年の卒業生になれば就職そのものが困難になって来たようで、昭和九年四月現在でもまだ未就職者と思われる者が八名、就職者でも国外での当時の台湾・朝鮮に就職している者が各一人あり、県内就職者は六名に留まっている。他県に就職した者の就職した県を挙げて視ると、福岡県、広島県、鹿児島県、香川県、宮崎県、愛媛県、大分県、佐賀県に各一名に就職している。そのほか大学へ進学したものも一人あった。
五高五十年史において筆者の高森先生は第十三臨時教員養成所卒業生は五高同窓会に参加しないのは同窓となる学校を持たないことになる事は淋しい事じゃないかと表現されている。そこで五高同窓会の設立を眺めて見ると、五高同窓会の設立は昭和五年に行われている。その第四条には「本会は本校卒業生を以って通常会員とし、本校職員及び職員たりし者又は本校に縁故ある者にして会長の推薦せる者を以って特別会員とす。」とあり、龍南会規則においても、第十三臨時教員養成所についての規則の追加、改正等も行われている様子はなく、第十三臨時教員養成所卒業生は五高同窓会からは五高とは別学校であり継子扱いにされていたように感じた。ここ第十三臨時教員養成所卒業生は五高卒業生と同席することを憚り肩身が狭いと感じたのではなかったのではなかったろうか?
第十三臨時教員養成所について調べた当時昭和五~七年頃五高に在学されていた方に第十三臨時教員養成所はどんな学校だったのですかと尋ねたことがあったが、全くよその学校と言う気しかなかったという答えで五高生は養成所という学校があったというくらいの認識で知らない学生も多かったようであった。