五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

学校教練の強化は配属将校や教練教官の横暴につながっていった

2014-04-23 08:06:03 | 五高の歴史
昨日は週一回であるが五高記念館に出た。時には「何をしているのですか」と問う人もあるが、「暇つぶしを兼ねて遊びに行っているのです」と答えることにしている。昨日調査した配属将校、教練教官が学校運営までに家を挟むようになったことを勉強してみた。

学校教練という物は大正14年(1925)以降、男子の中学校・高等学校等で学生・生徒を対象に行われた、陸軍将校による軍事に関する訓練である。終戦時の昭和20年(1945)廃止された。
学校教練の強化は年々実行され閲兵分列式が時々行われた。、東京で学生に対する御親閲が実施された時には、五高からも数名が代表として参加した。しかしこの教練の強化は後の配属将校や教練教官の横暴につながっていった。やがて彼等は学校運営にまで干渉するようになって行った。五高における査閲では昭和十七年度の査閲で陸軍の査閲官を生徒がなめた態度を示したことに対し査閲官の少将は今後五高生は特別幹部候補の試験には受けさせないと豪語したので添野学校長をはじめとする担当の教官は気をもんで心配した。この時代の五高の配属将校は深草大佐であり、この事件を期に配属将校は左遷され戦地に送られている。

昨日の鎮西会についての想い出の続きを書いて見たい鎮西会がどのような理由で消滅してしまったのか忘れてしまったが、結局懇親会を行い酒を飲むことが中心になって、特に想い出と言えば世話をされていた方が病気になられ死亡されてしまったこと。そのためその後任が出来なかったこと。結局鎮西会と言う組織自体に世話をする人がいなくなってしまったこと等であったと思う。あとで聞き及んだところでは私の一年後輩くらいの方が俺が鎮西会の世話するとかで世話をされたようであったが自己中心で先輩の事はもちろんの事他人の事は知らないというようなことで、参加者の間で賛同を得られなかったという。もちろんその方が世話なさるのであれば俺自身も参加しないと決めていたし、参加者皆がここでは自分が一番偉いと考えられたようであり結局うやむやで中止になってしまったという話であった。
このことは近くに私の一年位下の年齢で母の従兄弟の子供と言う方が居られ昔の母の言葉を借りればその親は「あの人にはまけるな、負けるな」と常に競争相手にされていたそうで、そのためだろうか俺の鎮西の同窓生、とかは協力ではなく背比べの方に走ってしまっていた。俺自身は人の事にはなるべくふれないで無関心でいるが、卒業後60年にもなろうとしているこの頃、未だ以てそんな考えの人で、そのため俺自身が同窓会など全く無関心になって、また気力もなくなって仕舞っている。

時には偶然会った人から、「あの人は死んだ、あれは早かった」と言われることも多く、俺自身の寿命が先に来るかもしれないと考え、ただお元気ですかと挨拶するこの頃である。家内の奴の中学校時代の同窓会の案内が来ていたので特にそんなことを考えていた。