昨日は火曜日であり五高記念館に出た。全国五高会報を眺めていたところ阿蘇道場に関するものとして竹原先生が書かれた「今昔 阿蘇道場」という文書にであった。竹原先生については大学時代教育心理や青年心理を教わったことがあるが、すでに半世紀以上の昔のことで先生の講義を聞いたという記憶しかない。今阿蘇道場日誌を掲載しているが、この「今昔 阿蘇道場」を転載し道場の廃止に向かう時期の確認を行った。
管財係として直接道場の管理をしていたのは俺たちであったが、同窓会の皆さんであろうか解体廃止について関係者が揃って出かけたと書いてあるが、直接の管理者に対しては一言の報告も何もなかったのはいわゆる昔の同窓会の財産であるという考えは変わっていなかったのだろうし、直接管理している管財係に対し何か話があったら解体しなければならない事情や理由等を説明することもできたと思う。先に紹介した取り壊すとき見に行ったという渡り鳥幹部の人があったことも紹介したが、このとき同道されたのかもしれない。結局阿蘇道場について心配したのは直接に管理していた者である管財係だけであったということがここでも確認出来た。
今昔 阿蘇道場 (教授 竹原東一 全国五高会報 平成2年9月 第62号 掲載)を転載する
内牧の阿蘇道場が朽廃して近く解体廃止されるそうで、関係者が揃って出かけたい、と熊本から連絡があった。5月15日に久しぶりに内牧を訪れることになった。集まったのは河原畑、大久保の元五高の先生と卒業生、夫人等三十人程である。道場が建って50年になる。昭和14年の夏、先生方、先輩学生達とともにモッコを担ぎ敷石を転がして作業に汗を流したのがついこの間のように思い出される。日中の事変が始まって3年目、行く先の分からぬまま不穏の気配は強まる許利であり、物資も次第に窮迫して木綿等も手に入り難い世相であった。
教育上でも勤労奉仕という考え方と実践が唱導されて学校の在り方が大きく変わり始めた時期である。この言葉も思想も恐らくドイツ伝来のものであったろう。この時代までは正課の上に附加された+αの全く奉仕的作業であったが、やがて戦争が重大な様相に入ると滅私奉公になり正規の授業は一切中止され、長崎、八幡等の工場で全面的に労働に没入しなければならぬ時代に入った。その戦時の労働に動員された学生たちは僅かな休息時間にも文庫本を開いて読書の渇きを充たしていた。実に激しい年代であったと思う。然し内の牧時代は未だそれほど過酷な空気ではなく、むしろ楽しみながら労力奉仕したものである。出来上がった道場は中央に七、八室の宿泊室が連なり、一組の学生が楽に泊まることが出来た。師弟同宿同行の生活が出来たのである。
昭和15年に添野校長が赴任されたが、先生は禅の修業を積んだ異色の教育者であり、道場の生活に坐禅が加えられた。当時の五高は全国でも最も特色のある教育を実践した学校であった。
道場は外輪山の内側の急な斜面が畑に接続する丘を少し登った原野にあり、眺望の好い所であった。根子岳から五岳を一望のもとに眺める地形で、今ならばリゾートの別荘地に評価される土地になるであろう。少し登った所に昔参勤交替の時に細川候の通った廃道があり、それが道場の飲料水として導水された。
道場の下から西の方の原野を開墾して唐芋や野菜を作って食料とした。火山灰の堆土でさらさらした畑土で辛芋も出来は上乗とは言えないが、食料不足の時代には役に立ったものである。配給時代にはどうして米を入手したかどうしても記憶にない。下の水田を借りて耕作したような気もするが記憶は曖昧である。
外輪山の上まで登ると放牧の牛が居たが、道場の周辺では見かけなかった。原野には春は翁草が転々と咲き秋は竜胆の青い花が美しかった。春には鶯が啼き、冬の夜には狐がなくのが聞こえた。ある冬の月の夜、烈しい爆発があって黒煙が千メートル以上も真直ぐに立ち昇るのを見たことがある。カーテンのない硝子窓越しに布団の中からそれを見ていた記憶は忘れられないものである。
敗戦は勤労も作業も修養も一切を押し流してしまった。道場だけは山の家の様に残っていた。時々学生の希望者を集めて宿泊に出かけた。何か食料だけはあったようである。然しそれも五高が続いた間のことである。大学になって学生部の所管に移り厚生課の世話で学生の宿泊に利用されていたようであるが、関係が途切れて今40年程の歳月が過ぎた。汽車から探して見ても見出すことは出来ぬようになり関心も途切れた。
内の牧駅から一直線に北の外輪に向かい駄馬と言うバス停から左に曲がるまで、人家が梢増えて居るように思う。田の中に土地のものが入る温泉小屋も元のまま建っている。ぬるい湯に入ると稲の間に沈んで居るような気がしたものである。
右の池の傍にも湯の出るところがあって、水泳の子供が時々湯に浸って遊んでいた。そこは今は一軒の温泉宿が立っていた。そこを過ぎて右の細道の奥に道場が立っていたのだが、そこに行き着いて驚いた。建物は古びているが昔のまま、然し周囲はまるで変わった樹木の生い茂った密林の中の様に見える。グリムのお伽話に出てきそうな森の中の魔女の家を思わせる。杉の大木は、切り倒したら切口は洗面器位はあろうと思われる。建築用材として役に立つであろう。五岳の展望等どこにもない藪の中である。
四十年の歳月はこれ程の変わり方を齎すものか。耕作を放棄して自然に任せるとこんなにも木々ははびころものか。狐や兎が跋扈する太古の世界に戻ったのか。私は改めて戦後四十年の歳月を考えた。戦争に促されて勤労奉仕が始まり、敗戦と共に戦争につながる一切のものが押し流された。しかし今の世の激しい利己的精神と自我主帳一辺倒の風潮はそのままでよいものであろうか。
受験戦争の激しさは友人を躓かせ陥れる策略まで企むほどに激しくなって居る。学生が一夜寝食を共にし静かに生活を語り合う時間や施設があっても宣い。むしろある可きだとも考える。阿蘇にある国の青年宿泊の施設の様なものがその役割を果たして居るのであろうか。阿蘇道場は未だ色々の問題を残しながら、朽廃して姿を消し元の自然林に帰ることになったのである。(教授 竹原東一 全国五高会報 平成2年9月 第62号)