貧者の一灯 ブログ

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妄想劇場・歌物語

2021年11月10日 | 流れ雲のブログ










大利根無情 :三波春夫
作詞:猪又良、作曲:長津義司、

利根の利根の川風 よしきりの
声が冷たく 身をせめる
これが浮世か
見てはいけない 西空見れば
江戸へ江戸へひと刷毛(はけ) あかね雲

(セリフ)
「佐原囃子が聴えてくらあ、想い出すなア…、
御玉ヶ池の千葉道場か、うふ…。
平手造酒も、今じゃやくざの用心棒、
人生裏街道の枯落葉か。」





天保15年、大利根河原の決闘で飯岡助五郎と
笹川繁蔵方の助っ人として、ただ一人闘死した
平手造酒を題材とした楽曲である。

笹川繁蔵、飯岡助五郎と呼ばれていますが、
笹川・飯岡は地名で苗字ではないので、
間に「の」をはさむのが正しい呼び方です。

ちなみに笹川繁蔵、飯岡助五郎の本名は、
それぞれ岩瀬繁蔵、石渡助五郎です。

国定の忠治、清水の次郎長、
吉良の仁吉なども同じ。

平手造酒(本名平田三亀)は、江戸・千葉周作道場で
俊秀と呼ばれ、剣客として将来を嘱望されていました。

しかし、性格上の欠点から失行多く、酒におぼれて
破門されてしまいます。

やがて肺結核を発症し、北関東を流浪するうちに、
笹川の繁蔵一家の食客となりました。

講談師・初代東流斎馬琴が『天保水滸伝』という題名で
この抗争話の原型を作りました。







平成13年4月14日(享年77歳)に亡くなるまで、
家族以外には内緒で歌手活動を続けていました。

三波さんは新しい境地を切り開きたいと、永六輔に
歌詞を依頼(平成8年の暮れのこと)します。

永は喜んで引き受けます。 そして出来たのが
「明日咲くつぼみに」という歌詞です。

早速レコード録音となりますが、三波さんはい
つものとおり、こぶしを回して張りのある明るい声で
歌います。

しかし、これに永は頭を縦に振りません。

もっと、優しく歌って欲しいと言うのです。
永は、何歳になっても百歳になっても
歌ってもらえる歌にしたかったのです。

だからボソボソと語るように歌って欲しいのです。

浪曲界から歌謡界に転身、本来の明るく前向きな
性格に裏付けされた 歌い方が確立されていたため、

それを変えるのは、きっと生き方を変えることくらいに
難しいことだったと思います。

なかなか、永の言うとおりにはなりません。

付き添っていた三波さんの妻ゆきは、永の要求は
三波には無理だと言って頭を下げます。

しかし、その直後、永はスタジオの窓越しに
奥さんの怒鳴り声を聞きます。

「永六輔さんの言っていることが分からないのか。
力を抜け、三波春夫じゃないか。

もう三波春夫はいないのか。」 と怒鳴ったというのです。

永は泣いたそうです。
この奥さんがいて三波春夫があると思ったそうです。

その後、永の思いどおりのレコーディングが
終了しました。

永六輔が三波春夫さんの癌を知ったのは、
亡くなってからのことです。

知っていたら書けない詩だったと言っています。
本当に心を打たれました。

感動のあまり涙が込み上げました

三波春夫さんもさることながら、奥さんのゆきさんにです。
思いやりの極致を見たからです。

我々凡人が出来る、夫(又は妻)の思いやりは、
せいぜい、静かに死なせてやるくらいのものでは
ないでしょうか。

癌で病んでいる夫(又は妻)に、きつい言葉など
投げつけることが出来るでしょうか。

思いやり・・・

茂木健一郎は「学力と比例する」と言い、
養老孟司は「他人の心が分かることが
教養である」と言い切ります。

愛情があれば、自然に生まれるものだと思いました。......















父が脳出血によって意識のない状態になり、家族として
延命治療の選択に直面した。  

延命治療にも様々あるだろうが、まず医師に質問されたのは
「もし心肺が停止したら、蘇生措置を行うかどうか」だった。  

ぼくひとりで決めていい事柄ではないと自覚しつつ、さすがに
この蘇生措置は不要だと思った。

たとえ父が今、死んだら、入院中の母が葬式に参列できない
という不都合があるとはいえ、それを理由に意識のない
父の蘇生をお願いしたいとは思わない。  

そもそも父がベッドの上で人工呼吸器をつけられ、
生かしてもらえている状態がすでに延命治療だろう。

この現状を積極的に止めて欲しいという気持ちはないが、
今後の心肺停止に抗うつもりはない。  

家族の意見をまとめておいて欲しいと言われたので、
母や兄弟にも相談した。

一番大事な人の意見は…  ステージ末期の進行がんで
ある母に、父の死やら延命治療やらの相談を持ち出すのは
気が重かったが、一番大事な人の意見を聞かないわけに
はいかない。

「うーん……。私にはわからない。

二郎が決めて」  それが母の答えだった。  
兄や弟とも、蘇生措置を行わないという点では一致したが、
兄がこんなことを言い出した。

「胃ろうもやめようよ。あれは良くない。胃ろうはダメだ」  
胃ろうというのは、胃にチューブを通して直接、食物や
水分などの栄養を投与する医療措置のこと。

口から食べ物を摂取できなくなった人に施され、
胃ろうを造る手術はPEGと呼ばれる。  

2010年頃だっただろうか、胃ろうの是非がマスコミでも
よく取り上げられた時期があった。

「人間は口から物を食べられなくなったら、それが寿命。
胃ろうを造ってまで延命させるべきではない」

「これは人間の尊厳の問題。
胃にチューブをつながれてまで生きていたいのか!」

「日本は胃ろう大国

お手軽に造りすぎて、医療財政を圧迫している」  
そんな批判が多く、2014年には胃ろうに関する保険制度
が改定されている。

医師の診療報酬が大幅に下げられ、乱造に歯止めが
かけられた。

ぼくもぼんやりと「胃ろうは望ましくない、減らすべき延命
治療の代表」のような印象を持っていた。  

父が救急搬送されて数週間後、病院から胃ろうを造るか
どうかの打診と説明があった。  

父のような症状の場合、最初は「点滴」→鼻からチューブを
入れて栄養を送り込む「経鼻胃管」→「胃ろう」という順番
をたどることが多いらしい。

だから、わかりやすく言うならば、鼻チューブから胃チューブ
に変えますか、という選択になる。

胃ろうはメリットが大きかった  

調べてみると、胃ろうはメリットのほうが大きいように思えた。
鼻チューブより患者の負担が小さい。ケアの手間も減る。
誤嚥性肺炎のリスクを減らせる。  

さらに現実問題として大きかったのは、病院から「胃ろうを
造れば、うちで入院を継続できる。

でも、胃ろうを造らない場合は、転院してもらうことになる」
と説明されたことだ。  

胃ろうの患者は、療養型の病院も含めて、受け入れて
くれる施設が多い。

しかし、胃ろうでない患者は、受け入れてくれる病院や
施設が一気に減る。

経鼻チューブの患者は、たんの吸引などの手間がかかり、
世話する側の負担が大きいためだという。  

試しに、胃ろうをしなくても受け入れてくれる病院を探して
みたが、自宅から汽車で1時間以上かかる町の病院が
最も近かった。  

そんなところへ転院してまで「胃ろうはしません!」と
突っ張る理由は、ぼくにはない。

それに鼻チューブより、胃チューブのほうがずっと苦しく
なさそうだ。父はしゃべれないから、見かけでしか判断
できないけど。  

心肺停止からの蘇生までは望まない。しかし今は、
父が少しでもこのまま長く、命のある状態を保って欲しい。

そのためにプラスになることは、お金がかかっても
やってあげたい。  

あと何ヶ月か父が頑張ってくれれば、母も葬式に
参列できるようになるだろう。

「そんな理由で長生きを望むのか!?」と聞かれたら
「そうです。そんな理由じゃダメですか」と答えるしかない。  

父の葬式に一番必要なのは、母だ。

母が車いすでもいいから参列できるように回復するまで、
父には生きていてもらないと困る。  

延命治療がその願いをかなえてくれるなら、ぼくはそれを選ぶ。