思い出す忘れられない一曲は高校時代に聴いたPPM
(ピーター・ポール・アンド・マリー)の「虹と共に消えた恋」…。
この曲は最初セカンド・シングル "If I Had A Hammer" (
天使のハンマー)のB面に入っていたもので、
翌年セカンド・アルバムにも収められましたが、シングル
になったのは日本だけです。
この曲のオリジナルは17世紀のアイルランドで歌われていた
"Siúil A Rúin" (シューラールゥ)という曲が基(もと)に
なっています。
歌詞は英語でコーラスの部分だけがアイルランド語
(ゲール語)で歌われていて、Web翻訳で英語に
変換してみると "Walking secrets "(こっそりやって来て)
となりました。
P.P&M(ピーター・ポール&マリー)の頃はヴェトナム戦争
の時代で、やはり反戦歌として歌われていました。
彼らの曲には他にも反戦歌が幾つかあります
人生を変えた曲は節目節目でありますね。
ひとつは多感な中高生時代にギターを持つきっかけ、
フォークを選ぶきっかけにもなったPPMです。
グループの3人できれいにハモるPPMを聴いてフォーク
の世界にスッと入っていくことができました。
高校生の時に、大分市内の商店街を歩いていると、
楽器店のスピーカーから歌が聴こえてきたんです。
「Johnny's gone for a soldier」というメロディー、だれが歌って
いるのかなと思って見ると、PPMというグループの
「虹と共に消えた恋」という曲でした。
すてきだなと思っていたらお店の人に声をかけられて、
「ギターと歌だけで説得力がありますね」と話をしたのを
今でも覚えています。
キレイなメロディーで戦争を憂う曲
出だしでシュル、シュル、シュラルーと歌っているけど、
何のことなのかな、でも、ジョニーという青年が戦争に
行っちゃったというのはなんとなくわかる。
戦争をやめろ! とかじゃなく、こんなふうに平和を訴える
歌があるんだと感じました。
ベトナム戦争が泥沼化している60年代のことです。
中学に入りたての頃、加山雄三さんの「恋は紅いバラ」に
衝撃を受けました。
アイ・ラブ・ユー、イエス・アイ・ドゥ……いい曲だなあ。
夕方、五右衛門風呂に入りながら、ラジオから流れてくる
洋楽番組を聴いていたらこの歌が登場し、日本人だと
わかった時にはただ驚くばかりでした。
それから加山さんは次々とヒット曲が続き、日本のシンガー
・ソングライターの元祖だと思っています。
洋楽ではなんといってもニール・セダカ「おお!キャロル」、
フォー・シーズンズ「シェリー」、ジョニー・ディアフィールド
「悲しき少年兵」、さらにプレスリー、シナトラがいて、
トニー・ベネット……。どれもこれも大好きでした。
2003年の拉致問題の時にポールから連絡が やがて時は、
中学生から高校生へと流れヒットチャートも変化し、
僕はボブ・ディランやPPMの歌っているフォークが好きに
なっていきました。
決定的にそれまでと違うのは社会問題を取り上げて
いることです。
それまでは、おまえが好きだ、今夜おまえを落とす……
全部がそうだった。
今、大事なのはこれだと思ったわけです。
当時は先輩のザ・フォーク・クルセダーズが酔っぱらいを
風刺した「帰って来たヨッパライ」を歌い、「イムジン河」で
朝鮮半島情勢のことを歌っていました。
岡林信康さんの「私たちの望むものは」も話題になって
いました。僕もそっちに流れ、その分岐点になったのが、
最初に出てきた高校時代に聴いた「虹と共に消えた恋」
だったのかなと思います。
PPMはピーター・ヤーロウ、ポール・ストゥーキー、マリー
・トラバースの3人です。
マリーは金髪でスタイルがよくて、歌う姿もカッコよくてね。
ポールとピーター・ヤーロウはそれ以前の泥くさいフォーク
ではなく、おしゃれでメッセージ性のあるモダン・フォーク
の世代です。
2人はニューヨーク、グリニッジ・ビレッジのライブハウス
で歌っていました。ボブ・ディランとは65年の伝説的な
ニューポート・フォーク・フェスティバルで共演しています。
この流れが日本では学生を中心に、コピーするだけではなく、
オリジナルでメッセージしていく歌になっていきます。
その代表が、小室等さんの六文銭、フォーク・クルセダーズ、
五つの赤い風船……。
それからさらに吉田拓郎やかぐや姫という流れです。
ポール・ストゥーキーさんとは何度かお会いしたことがあります。
2003年の拉致問題の時、ポールから連絡がありました。
彼は日本へ来て、当時の小泉総理と面会し、
「ソング・フォー・メグミ」という歌を横田めぐみさんの
ために歌いました。
時を同じく僕も拉致問題をテーマに「国境の風」という
歌を作りました。
久しぶりにポールと会って、コーヒーを飲みながら、
拉致問題の話や世界中の貧困に苦しんでいる人々
の話など、やっぱりお互いフォークシンガーだよね、
という話をしました。
「神田川」はラジオの深夜放送から火がついた
「神田川」は60年代、70年代の葛藤があったからこそ、
ヒットした曲です。
リクエストした俺たちが育てた曲だという思いがあるので、
今もコンサートに足を運んでくれるのだと思います。
去年はコロナでコンサートがゼロの月もあったけど、
デビューしてから走り続け、こんなに自分と向き合う時間
ができたのは初めてです。
そんな中で「夜明けの風」は僕から今、この時代にみなさん
に届けたいメッセージです。 …
すると由紀子先生は、私に向かって諭すようにこう言われた。
「『大丈夫ですか?』という言葉は、 安易にかけるもの
ではありませんよ」
こういうことである。体が不自由だからといって、いつも人の
手を借りなければいけない状態にあるのかといえば、
そうではない。
「大丈夫ですか」と問い掛けるのは、かたわらで見ている
側の心の不安の表れである。
由紀子先生は「ちゃんと私の状態を把握していますか」
と問い掛けたかったに違いない。
私が栄養士として由紀子先生の身近で仕事をするよう
になって、1か月ほど経ったときのことだったが、いまに
してみればその思いがよくわかる。
由紀子先生との出会いは2年半ほど前のことだ。
新聞で腎臓病食専門の栄養士募集の広告を見て、応募
したのがきっかけである。
由紀子先生は精神科医で、東京の町田市にある上妻病院
を開設され、副院長を務められた方だ。
「この世の中から病気をなくすことはできない。でも、病気で
苦しむ人の心をなくしていきたい」との志を掲げて病院を
始められたのだが、間もなくリウマチを患われた。
その後、腎不全になり、私が由紀子先生と過ごさせて
いただいたのは、62歳で亡くなるまでの約一年半である。
20数年にも及ぶ闘病生活が辛く苦しくなかったはずはない。
それなのに「病気によって苦しいのは、本人ではありません。
代わってあげることのできない周囲の人たちのほうが
よほど苦しいのです。地獄とはそういうことです」と言って、
決して弱音を吐かなかった。
いつも周りに気をつかって、笑顔で振る舞われる先生が
不思議で、尋ねたことがある。
「先生はどうしてそんなに強いのですか」
先生の答えはこうだった。
「それは多分、人間はとても弱い存在だということを、知って
いるからだと思います。
例えば、この苦しみをだれか一人の人間に預けて、もたれ
かかろうとしたとします。
そうしたら、その人はきっと私の重荷に耐えかねて、
つぶされてしまうのね。それくらい人間は弱い生き物です。
だから、人間に絶対を求めてはいけません。
絶対なるものは、目に見えない存在に求める
しかないのです」
先生は、いつも見えない存在と対話しながら、ご自身の
弱さと闘ってこられたように思う。
先生は仕事に対してことのほか厳しい方だった。
私が栄養計算をしてお出しした料理にしても、1回目で
口にしていただけることはほとんどなかった。
あるとき、食べやすいようにと、焼きなすの皮をむいて
食膳にお出ししたことがある。
「これではだめよ。なすはアツアツの状態で、自分で
皮をむいて食べるようにしなければ」と、作り直しを
指示された。
先生は薬の瓶も決して捨てることはなく、ものを大切に
される方だ。
それなのに、なぜ作り直しを指示されたのか。
「プロとして報酬をもらっている以上、最高のものを提供
しなければいけない。
妥協してこれでいいですよ、と言ってしまったら、その人の
ためにはならない」そう思って、苦言を呈してくださったの
ではないかと思う。
また、仕事の厳しさを説明するために、次のような話を
してくださった。
「あなたがある人から1万円を借りたとしましょう。
『明日返しますから』と約束していたのに、うっかりして
返すことを忘れてしまいました。
『ごめんなさい、明日には必ずもってきますから』と言えば、
その人はきっと許してくれることでしょう。
でも、天の裁きというのは、自分の言った言葉を守ら
なかった時点で下っているのですよ。
仕事も同じです。自分が今日はこうしよう、と思って決めた
ことをきちんと果たしているかどうか。
だれかが見ているからやるのではなく、自分と交わした約束
を守っているかどうか。それが仕事の基本的な心構え
なのですよ」
このように言われるのは、先生自身が仕事に対して、
真摯な姿勢で取り組まれてきたからにほかならない。
病院を設立する前、先生がある病院に勤務されていた
ころのことである。
勤務時間が終わっても、交代の医師が来ないことが
度重なった。
そんなとき、由紀子先生はいつも表情一つ変えることなく、
何時間も待機されていたそうである。
由紀子先生はこうも話されていた。
「大抵の人は、人生の花を咲かせるには、耕された土地に、
種をパッと蒔けばいいと勘違いしているようです。
人生に花を咲かせるというのは、コンクリートの上に花を
咲かせるのと同じくらい大変なことなのです。
考えてもごらんなさい。
コンクリートの上に咲いている花がどこにありますか。
でも、そのように苦心惨澹(さんたん)して咲かせた花は、
心の中にいつまでも咲かせ続けることができるのです。
私が病に苦しみながらも、心やすらかにいられるのは、
これまでに咲かせた花がいまも萎まずに咲いてくれて
いるからなのです」
先生が繰り返し繰り返し語られた言葉に、
「あなたはどれだけ損得なしに、人のために尽くす
ことができますか」というのがある。
だれかのために、惜しむことなく、身を呈す。その瞬間
にこそ、人は神に近づける…という思いが、先生の
根底にあった。
そして、惜しまれつつ召された
由紀子先生とは短い縁であったが、私もそのような
生き方に一歩でも近づきたいと願っている。