昭和44年4月、新聞社へ入った僕は大阪勤務を
命じられ、寮生活を始めた。
古い寮には同期生10人ほどが6畳と3畳の一部屋
に2人一組で住んだ。
初めての関西勤務だが、さしたる楽しみもない。
殺風景な部屋でのテレビもラジオもない生活。
そのうち別の部屋に住むS君がステレオを買った。
ステレオはあるがレコードがない。僕が買おうと申し出て。
LPレコードを一枚購入した。
森進一である。「望郷」(作詞:橋本淳作曲:猪俣公章)
「女心の 故郷は 忘れたはずの男の胸よ」とか
「港町ブルース」(作詞:深津武志作曲:猪俣公章)
「背のびして見る海峡を きょうも汽笛が遠ざかる」
「女のためいき」(作詞:吉川静夫作曲:猪俣公章)
「死んでもお前を 離しはしない そんな男の約束を」
など初期の歌が入っているアルバムだったと思う。
毎晩のようにS君の部屋で森進一を聴きあった。
それから40年ほど過ぎて、僕が歌の世界に
のめり込み、S君は演歌路線のテレビ東京の
社長になるのだから人生はわからない。
話は脱線するが、島倉千代子の葬儀のとき、
弔辞を読んだ3人は石川さゆり、僕、そしてS君だった。
なんでも美空ひばりの葬儀のときは当時のテレビ東京
の社長が弔辞を読んだので、それにならった
ということらしい。
最前列に石川さゆりと3人で並んで
「よりによってこんなところでお前と並んで座る
とはなぁ」と小声でささやき合った。
それから森進一を聴いてきた。
もっとも歌を聴くだけの余裕のなかった時期も
かなりあるので、すべての歌を知っているわけ
ではない。
ただ、あの声と、人柄と、そしてほんとうか噓か
わからぬが、ささいなことが森進一への関心を
強いものにした。
山梨県で生まれ、鹿児島で育った森進一は
中学を出ると上京し、バンドボーイなどをして働く、
と履歴にはある。
そのころ東京の立川市のレストランで働いていた、
という事実かどうか確かめようのないささいなことが、
僕の森進一像のど真ん中に存在しているのだ。
僕の通った高校が立川にあったということだけ
のことなのだが。…
NHK時代に歌謡番組制作のプロデューサーだった
M氏は穏やかで極めて尊敬できる人だ。
そのMさんに「一番歌がうまいと思った歌手はだれ?」
と訊ねたことがある。Mさん、間髪をいれず、静かな声で
「森進一」と答えた。
うまいとか下手とかの基準で判断できない歌手だと
思っていたので意外だった。
年齢や喉の病気などの影響もあるだろうし、
少しずつ声にも変化があるように思う。
しかしながら森進一独自の歌い方で半世紀もの間、
トップスターで歌い続けてきたのは偉大なことだ。
…
昔、新宿コマ劇場のワンマンショーに行ったことがある。
きゃーっと黄色い声を張り上げるおばさま軍団に驚いた。
あの世代のファンがみな高齢化して、次の世代の
ファンをつかむために、おのずと新曲の方向が
変わっていかざるを得ないのだろう。
暗中模索といおうか試行錯誤といおうか、森進一らしさ
が出ていない曲もあるように思う。
ほぼ同世代の僕からみれば、もっと森進一らしい
歌を歌ってほしいのだ。たとえば、
「哀の河」(作詞:かず翼作曲:四方章人)
「女が死ぬほど つらいのは 愛しながらも 別れる恋いよ」
この歌はさほどヒットはしていないが、森進一でなければ
歌えない歌だ。
「それは恋」(作詞:秋元松代作曲:猪俣公章)
「朝霧の 深い道から 訪れて 私をとらえ」。
「京都去りがたし」(作詞:売野雅勇作曲:森進一)
「比叡おろしの吹く夕暮れは 仕方ないほど あゝ 淋しくて」
など
森進一には二つの路線があると思う。
いわゆる演歌路線と
「襟裳岬」(作詞:岡本おさみ作曲:吉田拓郎)
「北の街ではもう 悲しみを暖炉で 燃やし始めてるらしい」
や「冬のリヴィエラ」(作詞:松本隆作曲:大瀧詠一)
「彼女(あいつ)によろしく伝えてくれよ 今ならホテルで
寝ているはずさ」などのポップス調。
好みの問題だが、「女」を歌う森進一演歌の決定版を
と願うのは僕の世代では多数派だと思う。
人前で最初に森進一の歌を歌ったのは30歳になるか
どうかというころで
「さざんか」(作詞:中山大三郎作曲:猪俣公章)
「春に咲く花よりも 北風に咲く花が好き」を歌った。
森進一の新曲だった。
ある労働組合の幹部らとの会合だった。
委員長の秘書のような男が歌い終わった僕のところへ
すっ飛んできた。血相を変えている。
「偉いことになりました。あの歌はいま委員長が
十八番にしている歌なんです。
それを先に歌われてしまって」。…
だれが何を歌おうとも勝手じゃないか、と言うべき
ところだが、それではこの秘書氏の首が危ない。
委員長のところへ行って「すんません、十八番を
先に歌いましたが、あくまで前歌ですから」とわび
を入れて事なきを得た。
それだけにこの歌は忘れられない。
森進一の歌をそれまで以上に身近に感じたのは
昭和59年大晦日のNHK紅白歌合戦で初めて聴いた
「命あたえて」(作詞:川内康範作曲:猪俣公章)
「離れていました 長いこと 女ひとり寝 眠られず
息ずく乳房 抱きしめながら」であった。
この命あたえては女の情念を激しく表現している。
ちょうど新聞社の特派員として米国ワシントンへ発つ
最後の紅白だったのでことさら記憶に残っている。
このときの音声をカセットテープに録音し、毎日の
車通勤で聴いていた。
それが2年後のワシントンでの日本航空主催
アメリカカラオケ大会の優勝につながるのだから
これもまためぐり合わせか。 …
教え子のミッちゃんが、あるホームセンターの
玩具売場で母親に置き去りにされたのは4歳
の時であった。
混み合う日曜日の売場で、おもちゃのオルゴール
を買ってもらい、うれしそうに箱を抱えて、ミッちゃん
はトイレに行ったはずの母親を待っていた。
“ここを動かないでね”のひと言に、にっこり笑って
頷いたのは夕暮れ時だったが、陽が落ちて、
客足が減り、閉店の9時になっても母親は
戻って来なかった。
ひとり残された少女は、店員の通報によって
警察で保護。
その後、自分の身に起きたことが理解できないまま、
児童養護施設に送られたミッちゃんは、なおも
母親を待ち続けたが、願いが叶うことはなかった。
そして、暗い施設の中で、いくら泣いても叫んでも、
再び戻ることのない母親の幻に向かって…
「私はゴミじゃない」と、泣き叫んだという。
そんなある日、
彼女を迎えに来たのは母方の祖母であった。
ミッちゃんの両親はすでに3年前に離婚していて、
重なる親の不始末に責任を感じた祖母が、
その後、ミッちゃんを引き取って育てたのだった。
やがてミッちゃんは高校へ。
自らもアルバイトを重ねてきたが、決して楽では
ない暮らしの中で、祖母は“せめてもの償い”と、
保険会社の勧誘員、そしてスーパーのパートを
両立させながら、必死の思いで、ミッちゃんを
短大まで通わせてくれたのだった。
孤児であるがゆえに嫌がらせも受け、
耐え難い屈辱を味わったが、ミッちゃんが
道を誤らなかったのは、祖母のひたすらに
働らく後姿があったからだという。
何も言わずに黙々と育てあげてくれた祖母。
彼女の中で決っして拭うことのできない傷を、
時間をかけて癒し続けてくれたのが祖母であった。
ある日、短大で“自分の体験談”を語る時間に、
ミッちゃんはこの話をし始めた。
最初は驚いたが、彼女が人の前で辛い生い立ち
を語れるということは、心の整理がついている証だ
と思い、私は静かに聴いた。
終了後、彼女はさらに深い胸の内を私に明かした。
「どうして皆の前でこの話を?」と聞くと、
「自立のための、決意宣言のつもりでした」と、
きっぱり言った。
ちょうど就活の時期でもあり、彼女は今はじめて、
自分の進路に明確なものを見い出したという。
それは、保育士になることだった。
当初、普通の企業に就職するためにこの短大
を選んだが、自分の生い立ちを踏まえ、熟慮の
末に進路変更を決意したのだった。
だが、目的を果たすためには一旦今の短大を
卒業した後、再び、保育の専門学校に入学する
必要があった。
そんな回り道をしてでも保育士になるという
彼女の決意は固かった。
ただ、もうこれ以上祖母に迷惑はかけられない。
2年間の専門学校を、3年かかる夜間部にして
昼間は就労。
更に、土曜・日曜を返上して別のアルバイト
をこなすことにした。
「からだは大丈夫?」と聞くと、「山村先生だって
昼夜働き、自分の決めた道を進んだんでしょ。
先生の話を聴いて、私も保育士になることを
決断したんです」と笑顔が返ってきた。
確かに“子供にとって何が必要であるか”を
一番知っているのは彼女であった。
“昔を思い出すから、子供の顔を見るのが
恐いと思ってきたけれど、私はもう逃げない”
とも彼女は言った。
ミッちゃんなら、きっといい保育士になるに違いない。
卒業式の日、彼女は真先に駆け寄り、
「先生、ありがとう」と言って、私の胸で
崩れるように泣いた。
「さあ、これからは子供達に愛され、誰からも
必要とされる保育士になるのよ。
うれしい涙はおばあちゃんのために
残しておきなさい」と、私はそっと彼女の
背中を押した。
あれから何年経っただろう・・・。
先日、ミッちゃんから手紙が届いた。
『先生、結婚して、かわいい女の子が生まれました。
保育士を続けながら、“この子をしっかり育てます”』と、
力強い文字で記されていた。
遠き日のあの出来事を乗り越えて、今、母親
になった彼女の幸せを、祈らないではいられない。・・・。