「今日中に連絡がほしい」
菅原文太から、こう留守電が入っていたのは
11月12日の夕刻だった。
会食を終えて電話すると、本人が出て、
「16日の会津での講演会に行けなくなったので、
代わりに行ってくれないか」と言う。
幸い、日曜日のその日は空いていたので、
「わかりました。いいですよ」と答えると、
ホッとしたように、「行ってくれる」と、
なごやかな声になった。
それが最後のやりとりだった。
それから2週間余りの11月28日に
菅原は亡くなったからである。
仙台一高の新聞部
一年後輩に井上ひさし会津での講演は、
仙台一高で菅原の一年後輩だった憲法学者
の樋口陽一との対談で、
冒頭、菅原から次のようなメッセージが
読み上げられた。
「ことの外思い出の多い会津をお訪ねすることを
楽しみにしていましたが、転んで腰を打ち、
長く座っていることが苦痛なので、私の敬愛する
親友、佐高さんに事情を話したところ、忙しい日程
をやりくりして、会津に駆けつけてくれることになりました。
飄々とした風貌の内に秘めた強い正義感、相当
危ないことを発言しながら、なぜかみんなに愛される
佐高さんと、
学者としても人間としても桁外れのスケールの
樋口さん二人を迎えてのこの度の会は、今の政治
にご不満の会津の皆さんを大いに満足させるでしょう。
衆議院解散、選挙が目前の本日の集まりには、
まさにピッタリのゲストです。
私が転んでよかったかもしれない。
まさに怪我の功名ですね。
折があれば、ふらりと会津の温泉にでも
行くつもりです」
「敬愛する親友」には赤面するばかりだが、
長々とこれを紹介したのは、生前の最後の
メッセージだと思うからであり、
さすがに高校時代は新聞部に入っていたという
菅原の行き届いた文章に感嘆したからである。
文化勲章をもらって、「日本人に生まれてよかった」
と言った高倉と、「こんな日本でいいのか」と
全国を駆けめぐった菅原は決定的に違う。
もちろん、個人的に親交があったからでもあるが、
私は高倉の死にショックは受けなかった。
しかし、会津の講演をめぐる経緯もあって、
菅原の死には狼狽を隠しきれない。
仙台や酒田に一緒に行ってもらったこともあって、
「えっ、そんな」と絶句するばかりである。
ガンだから、いつかはとは思いつつ、
「早すぎる」という言葉がすぐに出てしまう。
高倉と菅原を対比して、私は鶴田浩二主演の
映画『傷だらけの人生』を思い出した。
戦時下に軍部は「お国のため」を振りかざして
ヤクザを戦争に協力させようとする。
喜んでそれに応ずるヤクザもいるが、
鶴田の演ずるヤクザはそれを嫌い、こう呟く。
「自分たちも組の代紋を背負って無法なこと
をやるが、国家という“菊の代紋”を背負って
いる奴らが一番阿漕なことをする」
これは菅原にこそピッタリのセリフだろう。
高倉はあまり疑問なく国家に協力するヤクザではないか。
忘れられない役は『獅子の時代』と『仁義なき戦い』
ところで、会津は菅原が演じたNHKの大河ドラマ
『獅子の時代』の平沼銑次の出身地である。
自由民権運動に身を投ずる平沼に菅原は
はまっていた。
私がホスト役の『俳句界』の対談に出てもらった時、
菅原は、「あの役はさすがに忘れないね。
他の映画の主人公はほとんど忘れてるけど」
と笑っていた。
「他に忘れられない役はありますか」と尋ねると、
「やっぱり『仁義なき戦い』の広能昌三だね」
と答えた。
広能のモデルの美能幸三は、プロデューサーの
俊藤浩滋(女優の藤純子の父)と一緒に黙って
撮影を見ていた。
それも1日中ずっと立ってである。
スタッフが椅子を持って行って、座ってくださいと
勧めても座らない。美能はズボンのポケットに両手
を入れて立っている。
「おそらく、自分が25年間刑務所に入っていたこと、
映画で描かれている抗争やいろいろなことを思い
出しながら、万感の思いで見ていたんじゃないですかね。
あんなじゃなかった、こんなじゃなかったと、しょっちゅう
思っただろうけど、注文なんて一言もなかった。
ただ黙って見ているんです。
お昼になると、俊藤プロデューサーと昼飯を食べに
行って、午後になるとフラーッと現れて、またポケット
に両手を入れて立って見ている。
どちらかというと、よれよれの背広姿でね。
本当に今でも印象強く残っていますね」
これが菅原の述懐である。
「ヤクザという言葉もね、今はもう枠の外に追い
出されてしまって、使うことすら憚られるように
なってしまった。
そんな菅原の好きな歌人が山崎方代。
菅原の言う山崎の「心に突き刺さってくるような歌」
の一首が「ふるさとの右左(うば)口(ぐち)郷(むら)は
骨壷の底にゆられてわがかえる村」である。
菅原によれば方代は、山梨の僻地・右左口村
(現・甲府市右左口町)で生まれ、悲惨な育ち方
をした上に、戦争に行き、右眼を失明して帰って来た。
左眼もほとんど見えない。
しかし、見えないことを売りにして、表に出して
生き抜く反骨精神があった。
独特の照れもあって菅原は『俳句界』の対談の
最後をこう結んだ。
「メディアも世論誘導されて、反骨精神がない。
まったく情けないね。日本はどうなるんだろうと、
不安になるね。
俳句なんか作ってる場合じゃないよ」
ごもっともだが、あえて俳句の雑誌でこう言うところ
に菅原の茶目っ気がある。
ちょうど一回り上だが、そんな年の差を
感じさせない人だった。…
「たぶん一生寝たきりか、車椅子の生活になるでしょう」
首の骨を折る大けがにより、充実した教員生活から一転、
人生の奈落に叩き落された腰塚勇人さん。 …
「助けて」のひと言がどうしても言えなかった 〈腰塚〉
実は怪我をするまで、僕は競争が大好きな人間でした。
「常勝」が信条で、人に負けない生き方をずっと
貫いていたんです。
だから「助けて」なんて言葉は口が裂けても
言えない性分でした。
それが怪我ですべて人の手を借りなければならなく
なりました。僕が一番したくない生き方でした。
苦しいし、泣きわめきたいし、「助けてっ!」って
言葉が口元まで出かかってくるけど、プライドが邪魔
してそれを言わせない。
ここで弱音を吐いたら、家族に余計に心配を
かけてしまうと思うと、なおさら言えませんでした。
皆に迷惑をかけた分、なんとかしたいって気持ちで
いたんですが、そのプレッシャーや苦しさに押し潰され
そうになってしまって……
僕はとうとう舌を噛んだんです。
だけど結局、死に切れなかった。
あとには生きるという選択肢しかなくなりました。
じゃあ明日から前向きに生きられるかといったら、
それは無理です。自分を押し包む苦しさが
なくなったわけではありませんからね。
そんなある晩、苦しくて寝つけないでいると、
看護師さんが声をかけてくれました。
「腰塚さん、寝ないと体がもちませんよ。
睡眠剤が必要だったら言ってね」って。
その言葉に僕の心が反応しちゃったんです。
おまえに俺の気持ちが分かってたまるかって、
無意識に彼女をグッと睨みつけていました。
その看護師さんは素敵な方でね、僕の様子
にハッと気づいてすぐに言ってくれたんです。
「腰塚さんごめんね。私、腰塚さんの気持ちを
何も考えずに、ただ自分の思ったことを言ってたよね。
でも腰塚さんには本当に少しでもよくなって
もらいたいと思っているから……、
なんでもいいから言ってほしいです。
お願いだから何かさせてください」
看護師さん、泣きながらそう言ってくれたんです。
彼女が去った後、涙がブワッと溢れてきました。
あぁ、 この人俺の気持ちを分かろうとしてくれてる。
この人にだったら俺、「助けて」って言えるかも
しれないって思えたんです。
事実は変わらない。でも捉え方は変えられる
それまで僕は周りからずっと「頑張れ」って
励まされていました。
僕のことを思って言ってくれているのが分かるから
決して言えなかったけど、心の中は張り裂けそうでした。
俺、もう十分頑張っているんだよ……、
これ以上頑張れないんだよって……。
だから救われたんです。あの時以来、
凄く思うんです。
人の放つ一言が、人生を変えてしまうんだなって。
だから自分は言葉を丁寧に使おう。
言葉をちゃんと選んで、丁寧に使おうって。
泣くだけ泣いた次の朝、目が覚めるとベッドサイド
に飾られていたお見舞いの花がふっと目に入りました。
その時思ったんです。「せめて花みたいに
生きることはできないかな」って。
手足は動かないけど、顔は動きます。
だったらできるだけ笑顔でいよう。
口も動くんだから、できる限り「ありがとう」って言おう。
心も使えるんだから、周りの人がきょう一日元気に、
笑顔で過ごせますようにと願おうって。
そう決意したら、いろんなものがどんどん変わって
いったんです。
ドクターとも、看護師さんとも、リハビリの先生とも、
凄く仲良くなって、毎日が楽しくって。
首の神経が全て切れていなかったのも幸いして、
3週間後には奇跡的に車椅子に移ることが
できたんです。
事故に遭ったという事実は変わりません。
でも起こったことの見方、捉え方は変えることが
できるんです。そして生き方を「常勝」から「常笑」
に切り替えて、
いつも笑顔でいよう、いつも感謝をしよう、
周りの人々の幸せを願おうと決意したら、
毎日の小さな幸せに気づけるようになったんです。
自分がいかに周りの人たちから助けていただいて
いるかが実感できるようになったんです。
学校は僕の夢の場所でしたからねぇ。
戻れた時は、あぁやっと戻ってこられた、
やっと彼らに会えたって。
生徒の名を1人ひとり呼んでいたら、
涙が出てきて……。
それからは、思いどおりに動かない体を抱えて
毎日が闘いでした。
1日が終わると倒れ込むように帰宅していましたね。
ですから3月に無事卒業式を迎えて、 生徒たち
の名前を呼ぶことができた時には、心底ホッとしました。
感謝の気持ちでいっぱいでした。
復帰に導いてくださった先生方や生徒たち
がいなかったら、いまの僕はありません。
もう何年も経つけど、一生忘れられない卒業式でした。