貧者の一灯 ブログ

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貧者の一灯・THEライフ

2022年06月09日 | 流れ雲のブログ


















江戸時代に中国から日本に伝わった「陰騭録」という
書物があります。

これは「徳と罪」「因果の二法」について書かれた本です。
著者は中国の明の時代の高級官僚で袁了凡
という人です。袁了凡は若い頃、運命論者でした。

ある高僧に出会って、運命論者から運命開拓者に
変わりました。

「陰騭録」の「陰」とは、「ひそかに」という意味です。
そして「騭」は、「定める」という意味です。

つまり、「天は人間の日々の善悪の行いをひそかに
照覧して、禍福の運命を定める」ということです。

「陰騭録」の第一章には袁了凡の実体験が
書かれています。

昔、中国では「科挙」という官吏登用試験があり、
それに合格することが人生の大目標でした。

この試験に合格する最終順位が、その後の地位
をすべて決定していました。

そういう特別な試験だったので、当時の人々はみんな
科挙に受かりたいと一生懸命でした。

袁了凡は科挙に合格しようと頑張っていました。

その後、たまたま近くのお寺にいると、そこに
白く長いひげを生やした仙人のような老人が現れて、
袁了凡に「お前に会って将来のことを全部教えて
やろうと思い、遠くからやってきた」と言います。

その老人は孔といい「私は邵康節という大易者の
流れをくむ者だ。私には何でもわかる」と言い、
袁了凡本人しか知らないこれまでの人生のことを
言い当てました。

袁了凡は自宅に孔老人を招き入れました。

そこで、孔老人は「お前は来年、科挙の最初の試験に
受かるぞ」と言います。それも試験の合格順位まで
予言したのです。

袁了凡は、これまでの人生をすべて言い当て
られていたので、それを信じました。

そして、さらに生涯を占ってもらい、「次の試験は
何番で合格。その次は何番。何年にはいくらの
俸給をもらい、何年には貢生となり、その後、
四川省の長官に選ばれ、在任2年半で職を辞し、
53歳の8月14日の丑の刻に表座敷において一生
を終えるであろう。

惜しいことに子どもがない」と言われ、その聞いたこと
を丁寧に書きとめました。

そして最初の試験を受けてみると、孔老人に言われた
通りの順位で受かりました。その次の試験も言われた
通りの順位でした。給料の額もその通りでした。
すべて言われた通りの人生だったので、袁了凡は
完全な運命論者になっていきました。

予言通り貢生となった袁了凡は南京の大学に
遊学します。そこで棲霞寺を訪ね、雲谷禅師という
有名な僧に会いに行きました。

そして三昼夜、袁了凡は雲谷禅師と座禅を組み、
その間一睡もしませんでした。

雲谷禅師が「君は一体どういう人だ。

まだ年若く見えるけれど、心がまったく動かない。
人間というのは一刹那の間に九百の邪念が起こる
というが、それがまったく起こらない。

どういうことだ」と尋ねました。

すると袁了凡は「実は若い頃に、孔老人に自分の
人生を占ってもらいました。死ぬ時まで知っています。

ですから、私は定まった運命を知っているので、
妄想、邪念が起こらないのだと思います」と答えました。

それを聞いて雲谷禅師は「すぐれた人物だと思ったが、
ただの凡夫か」と言いました。

袁了凡が「それはどういうことですか?」と尋ねると、
「大易者なら凡夫の運命は全部言い当てることができる。

しかし、たくさん徳を積む人は運命が刻々と変わって
いくから大易者でもわからない。

逆に罪障を重ねていく人も運命が業に引きずられて
変わっていくからわからない。

君は運命のままに生きている単なる凡夫だ」と答えました。

それを聞いて袁了凡はまた質問しました。
「それならば、運命というものは逃れることが
できるものですか?」

これに対して雲谷禅師は「運命は自分から作り、
幸福は自分から求めるものである。

君がこれから徳分を高め、善事を力行し、多くの陰徳
を積むならば、必ずや運命は好転していくであろう」
と答えました。

それから、功過格という善悪の行いに点数をつけたもの
を袁了凡に渡しました。

これには「人の命を救うとプラス100点」、
「人を殺したらマイナス100点」、
「浮浪児を引き取って育てるとプラス50点」、
「一人を出家得度させるとプラス30点」、
「一人の無実の罪の人を救えばプラス30点」など、

プラスになる行いとマイナスになる行いが
細かく書かれていました。

また帳面を1冊渡し、「日記のように毎日行ったこと
を書きなさい。そして私が言ったプラスとマイナスを
計算して、一日何点だったかを記録しなさい。

そして合計3000点を目指しなさい。

そして実行し始めたら必ず効験があると信じ切りなさい」
と教えました。袁了凡は「わかりました」と返事をし、
これまでの自分を深く懺悔して、雲谷禅師の教えに
したがって3000点の善行をすることを仏前に誓います。

「これを達成するまでは絶対に退転いたしません」
と仏前で誓って願文を差し出したのです。

その翌年に科挙の次の試験がありました。

孔老人は3番で受かると言っていましたが1番で
その試験に受かりました。

「3000点の善行をしよう」と思って始めただけで、
もう結果が変わったのです。

3000点を満行したからではなく、懺悔をして心を
切り替えて徳を積み始めたことで、もう効験
があったのです。

袁了凡は3000点の善行を成就するのに十余年
かかりました。それは善行とともに人は悪行も
してしまうからです。

成就した翌年、袁了凡は上人方を招いて先祖
の回向をしました。

「先祖のお陰で良い教えを聞いて徳を積むことができた。
これは先祖に感謝しなければならない」ということです。

袁了凡はこの後もずっと徳を積み続けまました。…。

捨心 思いを切ることができますか?

何があっても”もうだめだ”と思わないことです。
これが一番単純にして優れた医学であり、
体のためにも心のためにもいいことです。














年齢、国籍、職業、生活環境など まったく異なる境遇
にある子どもたちを、一つの教室で 指導されてこられた
元夜間中学校教諭の松崎運之助さん。

山田洋次監督の映画『学校』のモデルになったことでも
有名でいらっしゃいます。
 
松崎さんの原点となった 幼き日のお母様とのエピソード

「父」と「母」という漢字を 教えていた時のことです。
「父」は斜めに線を引っ張って 下にバッテンを書く
だけだけど「母」は くと「く」のさかさまを 組み合わせ、
不安定に傾いていて、中に点々まである。

父は簡単だけど 母は難しいというのが 皆の一致した
意見でした。

「先生、点々は略しちゃいけないの?
1本の線でいいじゃない」

「点々はお母さんのおっぱいを 表しているから、
簡単には変えられません」 と答えると、

「ええ!? おっぱい出していいの?」
「やっぱり棒線で消したほうがいい」と大騒ぎ。

そうこうしているうち、ある生徒が「先生、悪いけど
私にはあれがお母さんのおっぱいには見えません」
と言い出しました。

困ったなと思っていると、「私にはお母さんの涙に見える」
と言いました。

すると他の生徒たちも、「そうだ。あれはお母さんの涙だ。

お母さんの涙は大事に しなくちゃな……」
と頷き、それぞれが 苦労の多かったお母さんの
話を始めました。

若い頃、母の心など知らずどれだけ反抗したか。
逆らったか。溢れ出る涙をそのままに皆が語り出しました。

年が違おうと国籍が違おうと、父がいて母がいて、
今日まで多くの方々に支えられて生きてきたことは
変わらない。それは私も同じです。

私もクラスの仲間として、皆さんに母の話をしました。
 
私は両親が満州から引き揚げてくる混乱のなかで
生まれました。

小さかった兄は、私が母のお腹にいる時、
逃避行を続ける最中で息絶えたといいます。

失意のどん底に叩きつけられた母は、泣き明かした後、
「いま息づいているこの命だけは何があっても産み
出そう」と誓い、私を産んでくれたのです。

私は誕生日が来る度に、母からこの話を
聞かせられました。

「あんたが生まれたのはこういうところで、その時、
小さな子どもたちが たくさん死んでいった。

その子たちは、おやつも口にしたことがない、
おもちゃを手にしたこともないんだよ。

あんたはその子たちのお余りをもらって、やっと
生き延びられたんだ。

あんたの命の後ろには、無念の思いで死んで
いった人たちの たくさんの命が繋がっている。
そのことは決して忘れちゃいけないのよ」

私は生まれてこのかた、母に誕生日プレゼント
をもらったことはなかったし、欲しいと思ったこと
もありません。
 
私にとって誕生日は、産んでくれた母に
感謝をする日でした。
 
一家は長崎へ移り住みましたが、結局父親は
外に女をつくり、母とは離婚。

父は家を売り払って、そのお金を元手に女の人と
新しい生活を始めました。

無一文になった母は、小さな子ども3人を抱え、
市内を流れるどぶ川の岸辺にある、吹けば
飛ぶようなバラックに移り住みました。

すぐにお金が必要ですから、母は男の人に交じって
なれない力仕事を始めました。

疲れて帰ってくるので、すぐに横になって寝てしまう。

それが子ども心にどれだけ寂しかったことか。
一日中帰りを待ちわびて、話したいこと、聞いて
もらいたいことが山ほどある。

弟や妹は保育園で覚えた歌や踊りを
見てもらいたいのです。

そこで私は考えました。

弟と妹の手を握り締め、橋の上で母の帰りを
待つことにしたのです。

やがて橋の向こうから小さな母が姿を現すと、
3人は歓声を上げて転がるように走っていきました。

あのね、あのね……。

同時に喋る私たちの話を上手に交通整理をしながら、
母はまっすぐ家には帰らず、近くの石段を登って、
眺めのいいところへ連れて行ってくれました。

母が真ん中に座り、子どもたちがそれに寄り添う。
眼下に広がる長崎の夜景を見ながら、

私たちきょうだいが ひとしきり話し終えると、
母が少しだけ自分の話をしてくれました。
 
朝早くから夜遅くまで働いていたので、
母はほとんど家にいませんでしたが、
心はいつも一緒でした。

物はない、金はない、町の人や学校の先生からは
臭いだの汚いだの言われていましたが、…
母と子の間には いつも真っ青な青空が広がっていた。

そんな気がします。  …