政治記者は「権力と付き合え」
1999年春、私は政治部へ着任した。
時は小渕恵三政権である。
自民、自由、公明の連立政権が動き始めていた。
小泉純一郎政権から安倍晋三政権へ至る
清和会支配が幕を開ける前夜、
竹下登元首相が最大派閥・平成研究会(小渕派)を
通じて隠然たる影響力を残していた時代である。
私は新聞記者6年目の27歳。
政治や経済は無知であった。
そればかりか初めての東京暮らしで
右も左もわからなかった。
政治部の恒例で着任初日は政治部長に挨拶し
昼食をともにする。駆け出し政治記者が政治部長
と直接話をすることなどこの時くらいである。
政治部長は若宮啓文さんだった。
朝日新聞を代表するハト派・リベラル派論客で、
のちに社説の責任者である論説主幹や主筆となる。
韓国紙に連載するなど国際派でもあった。
父親は朝日新聞政治部記者から鳩山一郎内閣
の総理秘書官に転じた若宮小太郎氏。
その子息の若宮さんは「政治記者として血統の良い
サラブレット」という印象が強かった。
朝日新聞をライバル視する読売新聞の渡辺恒雄氏
とも昵懇で、政治家では河野洋平氏と密接な関係
を築いていた。
その若宮さんが私たち駆け出し政治記者に
投げかけた訓示が衝撃的だった。
私はつくば、水戸、浦和で過ごした新聞記者
5年間とは別世界に来たと思った。
若宮さんは眼光鋭い目を見開きながら、
静かにこう語ったのだった。
「君たちね、せっかく政治部に来たのだから、
権力としっかり付き合いなさい」
新聞の役割は権力を監視することだと思ってきた。
「権力としっかり付き合いなさい」という言葉は
意外だった。
私は当時、世間知らずで怖いもの知らずだった。
日本の新聞界を代表する政治記者であり、
朝日新聞を代表する論客であり、初対面である
自分の上司に、やや挑発めいた口調でとっさに
質問したのである。
日本という国家の「権力」 「権力って、誰ですか?」
若宮さんはしばし黙っていた。ほどなく、静かに
簡潔に語った。
「経世会、宏池会、大蔵省、外務省、そして、
アメリカと中国だよ」
経世会とは、田中角栄や竹下登の流れを汲み、
当時は小渕首相が受け継いでいた自民党最大派閥
・平成研究会のことである。
永田町ではかつての名称「経世会」の名で
呼ばれることも多い。
数の力で長く日本政界に君臨し、たたき上げの
党人派が多く「武闘派」と恐れられた。
小沢一郎氏が竹下氏の後継争いで小渕氏に敗れ
自民党を飛び出した「経世会の分裂」が、1990年代
の政治改革(小選挙区制導入による二大政党政治
への転換)の発端だ。
宏池会は、池田勇人、大平正芳、宮澤喜一ら大蔵省
(現・財務省)出身の首相を輩出し、戦後日本の
保守本流を自任してきた。
経済・平和重視のハト派・リベラル派で、 政策通の
官僚出身が多い一方、権力闘争は不得手で
「お公家集団」と揶揄される。
経世会の威を借りて戦後の政策立案を担ってきた。
大蔵省と外務省は、言わずと知れた「官庁中の官庁」。
自民党が選挙対策や国会対策に奔走する一方、
内政は大蔵省、外交は外務省が主導するのが
戦後日本の統治システムだった。
とくに大蔵省は予算編成権を武器に政財界に
強い影響力を行使し、 通産省(現・経済産業省)や
警察庁など霞が関の他官庁は頭が上がらなかった。
この大蔵省・財務省支配は2012年末の第二次
安倍内閣発足まで続く。
そしてアメリカと中国。日米同盟を基軸としつつ
対中関係も重視するのが経世会や宏池会が牛耳る
戦後日本外交の根幹だった。
政治家やキャリア官僚は日頃から在京のアメリカ
大使館や中国大使館の要人と接触し独自ルートを築く。
政治記者を煙に巻いても米中の外交官には情報を
明かすことがある。
政治記者ならアメリカや中国にも人脈を築いて
そこから情報を得るという「離れ業」も必要だ。
国際情勢に対する識見を身につけたうえで、
米中の外交官が欲する国内政局に精通し、
明快に解説できないようでは見向きもされない。
若宮さんの訓示は、この6者(経世会、宏池会、
大蔵省、外務省、アメリカ、中国)こそが日本という
国家の「権力」であり、政治記者はこの6者としっかり
付き合わなければならないということだった。
戦後日本政治史の実態を端的に表現したといえる
だろう。 私は当時、その意味を理解する知識も経験も
持ち合わせていなかったが、
政治記者として20年以上、日本の政治を眺めてきた
今となっては、若輩記者の直撃に対して明快な答え
を即座に返した若宮さんの慧眼と瞬発力に感動
すら覚える。
小渕恵三首相の「沈黙の10秒」
小渕恵三という総理は、口下手だった。途中で言葉
が詰まり上手に話せないこともしばしばあった。しかし、
総理番の取材に丁寧に応じようとしていることは
よく伝わってきた。
短い時間に、歩きながら、必死に言葉を絞り出していた。
私も何度もぶらさがって小渕総理に厳しい質問をしたが、
どんなに慌ただしい政局の中でも何とか言葉を探して
一言は答えてくれたものだ。無視されることはなかった。
小渕総理は風貌は地味で、流暢に話せず、「冷めたピザ」
と揶揄されたが、若手記者の取材に真摯に応じる姿勢
に惹かれた総理番は少なくなかった。
「人柄の小渕」がマスコミを通して世間にじわじわ
浸透したのか、 当初低迷していた内閣支持率は
徐々に上向いた。
時間がたつにつれ支持率が下がることの多い
日本の政権にしては珍しいパターンだった。
私は2000年春に総理番を卒業することになった。
最終日、4月1日は日本政治史に残る重大な日となる。
当時の関係者が何年もたった後に私に打ち明けた
話によると、自自公連立を組む自由党の小沢一郎氏
はこの時、 連立離脱をちらつかせながら
小渕総理と水面下で接触し、自民党と自由党をともに
解党して合流するという大胆な政界再編を秘密裏
に迫っていたというのだ。
この日は夕刻に官邸を訪れ、小渕総理と最後の
直談判に及んだのだった。
私たち総理番は執務室の前で待った。小沢氏が
硬い表情で退出した後、ほどなくして小渕総理が現れ、
総理番に取り囲まれた。
私は小渕総理の目の前にいた。
小渕総理は何か語ろうとしたが、うまく声を発する
ことができずに10秒ほど押し黙った。
ようやく口を開いて「信頼関係を維持することは
困難と判断した」と述べ、会談が決裂したことを告げた。
小渕総理はそのまま総理番たちに背中を向け、
総理公邸へ向かう廊下を進んだ。
最後にちらっと私たちのほうを振り向いた。
これが小渕総理との別れだった。
小渕総理は公邸に戻り、大好きな司馬遼太郎の
「街道をゆく」のビデオを観ながら倒れたという。
あとで先輩から「お前はあの時、小渕さんの目の前に
いながら、10秒も押し黙ったのに、 体調に異変が
生じていることに気づかなかったのか」と叱られた。
まったくその通りである。 しかし当時の政局は
緊迫していた。小沢氏と決裂して連立解消が決まった
直後、小渕総理の口調がこわばっていても
不思議ではない。
しかも小渕総理は日頃から能弁ではなく、
言葉に詰まることが珍しくなかった。
とはいえ体調の異変に気づかなかったのは、
毎日密着している総理番としては観察力に欠けて
いたと言われても仕方がない。
その夜、政治記者たちは連立解消の取材に遅くまで
追われた。朝刊の締め切りが過ぎた4月2日未明、
私は他社の総理番らに国会近くの飲み屋で
「総理番卒業」の送別会を開いてもらった。
私は外務省担当になることが決まっていた。
「小渕政権の最後まで総理番として見届けたかった」
と他社の総理番たちにほろ酔いで話していた
まさにその頃、 小渕総理は病魔に襲われ、
密かに順天堂大学附属順天堂医院へ運び出され
ていたのである。
権力は重大な事を隠す 当時の青木幹雄官房長官や
野中広務幹事長代理ら「五人組」は小渕総理が倒れた
事実を伏せ、
後継総理…
それは森喜朗氏だった…を密室協議で決めた。
権力は重大な事を隠す。小渕総理の入院が
公表された時にはすでに森政権へ移行する
流れは出来上がっていた。
小渕総理が身をもって教えてくれた政治の
冷徹な現実である。
小渕官邸の「総理番」で学んだことは多かった。
もちろん、官邸と官邸記者クラブの「癒着」は
当時からあった。
いちばん驚いたのは官房機密費の使い方だ。
さすがに「餞別」 などの理由で現金が政治記者に
配られることはなかったと思う。しかし政務担当の
総理秘書官は連夜、総理番を集め高級店で
会食していた。
その多くの費用は官房機密費から出ていると
政治部記者はみんな察していた。
当時、地方支局ではオンブズマンが情報公開制度
を利用して官官接待を追及しており、行政と記者
の癒着にも厳しい目が向けられていた。
「取材相手との会食は割り勘」は常識だったし、
記者懇談会で提供される弁当にも手を付けるな
という指示が出るほどだった。
それなのに永田町の政治取材の現場では
官房機密費がばらまかれていた。
官房機密費の使用には領収書が不要で、
情報公開で決して表に出ることはないと政治家も
官僚も記者も確信しているからだった。
私は政務の総理秘書官を担当しておらず会食に
出席したことはなかったが、上司に「あれはおかしい
のではないか」と言ったことがある。
上司は「それはそうだが、あの会食に出ないと、
総理日程などの情報が取れない」と説明した。
それに抗って異論を唱え続ける胆力は新米政治
記者の私にはなかった。
当時に比べると、今の取材現場では「割り勘」が浸透し、
悪弊は解消されつつある。ただし、そのスピードは
極めて遅い。
そればかりか、安倍晋三、菅義偉、 岸田文雄各総理
の記者会見をみると、官邸と官邸記者クラブの
緊張関係はまったく伝わってこない。
小渕総理と政治記者のぶらさがり取材には
緊張関係があった。小渕総理が政治記者という
職業に敬意を払っていたからだろう。
当時は新聞の影響力が大きく無視できないという
政治家としての現実的な判断もあっただろう。
政治取材は長らく、権力者側の「善意」や「誠意」に
支えられる側面が大きかった。
新聞の影響力低下に伴って政治記者が軽んじられる
ようになり、 一方的に権力者にこびへつらうように
なったのが今の官邸取材の実態である。
権力者側の「善意」や「誠意」には期待できないこと
を前提に、新たな政治取材のあり方を構築しなければ、
政治報道への信頼はますます失われていくだろう。
家康が徳川幕府を開いた頃のことである。
長崎に住んでいたスペイン人の商人、アビラ・ヒロンは、
「日本の子供は非常に美しくて可愛く、6,7歳で
道理をわきまえるなど優れた理解力を持っている。
しかし、その良い子供でも、それを父や母に感謝
する必要はない。なぜなら父母は子供を罰したり、
教育したりしないからである」。
このヒロンの感想は少し解説がいるだろう。
日本人の感覚では父母に感謝するのは、自分を
生んでくれてこの世で生を授かったこと、
幼児の時にお乳を飲ませてくれたこと、
だから「親の恩」があるということである。
父母が自分を罰してくれるから自分が成長できる、
だから感謝する。親が罰してくれないなら成長でき
ないから感謝しなくてもよいというのはヨーロッパの
感覚である。
だからヒロンは、「日本の子供は父母に感謝する
必要はない。なぜなら父母は罰してくれなかったから」
という日本人には理解が苦しむ感想を述べて
いるのである。
フロイスも同じように描写している。
「我々の間では普通、鞭で打って息子を懲罰する。
日本ではそう言うことは滅多に行われない。」
江戸時代の日本の子供は甘やかされていた。
鞭も打たれず、厳しい折檻も受けない日本の子供達
はヨーロッパの人たちから見ると親が教育をしよう
ともしない未開の国と思っただろう。
それでは、こんな緩い教育を子供にしていた日本、
それから250年ほど経った、江戸時代の末期には
どうなっていただろうか?
オランダ副領事のボルスブルッグの記録を紹介する。
「私の近所に住む日本人のほとんどは漁師だったが、
いつも丁寧で礼儀正しかった。
毎週三回、私の中庭を開けて子供達を遊ばせて
やったり、持ってきたおもちゃを貸してやった。
私は、あんなに行儀良くしつけの良い子供達を
見たことがない。
子供達は喧嘩をしたり叫んだりすることもなく、
おとなしく遊び、帰る時間になるとおもちゃをきちんと
片づけて、何度も丁寧にお礼を言って帰るのだ。」
幕末の日本の子供に対して、多くのヨーロッパ人、
アメリカ人が同じ感想を述べている。
特に女の人の旅行記には日本の子供を褒め
ちぎっているものすらある。
貝塚で有名なモースが、「貧乏な子供でも、日本の
子供は他人のお金を絶対に欲しがらない・・・
どうしてだろう、あんなにひもじそうにしているのに、
それでも机の上に置きっぱなしにした小銭が
盗られることもない」と驚愕している。
日本の子供は偉かった。行儀正しく、他人のものを
欲しがるような意地汚い真似はせず、ご飯を食べる
時には手を合わせて仏様に感謝した後、お百姓さん
に感謝して一粒も残さない、そんな子供達だった。
儒教を教わったわけではなかったが、お父さん、
お母さんを敬い、優しいお婆さんが好きだった。
明治に入って日本にはヨーロッパ流の教育制度が
取り入れられた。そして太平洋戦争後は、戦争を
起こした反省から
平和教育が進み、日教組を中心として自我に
目覚めた子供達を作っていった。
大学は子供達を受験戦争の中に組み込み、
社会はお金持ちになることが人生の成功だと言った。
歴史も大人も、そして教育者もマスコミも、みんなで
日本のあの美しい、珠のような子供達をこんなに
してしまった。
でも遅くはない。まだ明治から150年。
日本の子供達は大人が「悪い子供になれ」と
期待しているので、見かけは大人の期待に
応じているだけだ。
本当は江戸時代の子供達と同じように純粋な
心を持ち、倹約家で、お金より心を大切にする
気持ちを持っている。
先日、私が名古屋の地下鉄から降りようとすると
ドアーの前に大人が10人ほど殺到してきた。
20代半ばと思われる若い女の人、40歳あたりの
分別盛りの壮年の人、
そして差別語かも知れないが、おばさん達が
突進してくるのをかき分けながら降りようとすると、
傍らでお婆さんの声がするではないか!
「降りる人が先よ!ケンちゃん、待ちなさい!」…