掲示板でも Twitter でも Facebook でも どこでも
不毛な議論は起きている。
実はネット以外の場所でも議論が成立すると
いうのはすごく難しいんじゃないだろうか。
インターネット上では、正解なんてあるはずもない
問題について「誰の意見が正しい か」という議論
が延々と続くことがあります。
しかしこういったやりとりは、本当に無意味です。
なぜなら意見には「正しい意見」なんて存在しません。
「間違った意見」もありません。
あるのは、私の意見、彼の意見、あの人の意見、
などだけです。
だから正解のない問題について、自分とは異なる
意見を述べる人がいても「おまえの意見は
間違っている!」などと詰め寄る必要はありません。
その人の意見は間違っているのではなく、
「あなたの意見と異なる」だけです。
世の中にはさまざまな人がおり、みんなそれぞれ
違う意見をもっているからです。
「正しい意見」など存在しないのだから、
見も知らぬ誰かを説得し、自分と同じ意見に
変更させる必要もありません。
もしあなたが誰かの意見を聞いたときに「あの人の
意見は間違っている」と感じたとしたら、もう一度
「それは正解のある問題か?」と自分に問うて
みてください。
もしそうなら、正解を調べて教えてあげましょう。
「あなたの意見は間違っている!」 と言うのではなく、
「正解を調べたら、△△に○○と書いてありました」
と伝えればよいだけです。
一方、もしそれが「正解のない問題」であったなら、
その人の意見は間違っているのではなく、
あなたの意見と異なるだけです。
だからこの場合も「あなたの意見は間違っている!」
などと詰め寄る必要はなく、たんに「なるほど、
あなたの意見はそういう意見なのですね。
ちなみに僕の意見は○○です」と伝えれば
いいだけです。
このとき「僕の意見はあなたの意見とは違います!」
などと言う必要はありません。
なぜなら「そんなことはあたりまえ」だからです。
たまたま同じ意見になることはありますが、
基本、それぞれ人の意見は異なります。
だから「僕の意見はあなたの意見とは違います!」
なんて言われても、相手は「そりゃ あそうでしょ。
意見はみんな違ってあたりまえじゃん」と思うだけです。
そうではなく、「自分の意見は○○です」と
言わなければ会話にならないのです。
SNSが普及したことで、私たちは日常的に
「他の人の意見」を目にするようになりました。
意見は人によって異なるので、より正確にいえば
「自分とは異なる他人の意見をよく目にするように
なった」ということです。
このため「意見が違うのはあたりまえ」
「意見には正しいも間違いもない」と理解
できていない人は、すぐに
“クソリプ” と呼ばれるくだらない=クソの
ような無価値な返答をしてしまいます。
「あなたの意見は間違っています!」とか
「私の意見は違います!」といったリプライは
典型的な “クソリプ” ですが、
そう言っている人の多くが、自分の言葉が無意味な
ものだとは気づいていません。
それを言われた相手が、「意見には間違いも
正しいもないのに、なぜおまえの意見は間違って
いるなどと言ってくるんだろう?」とか
「意見が違うなんてあたりまえなのに、 なぜわざわざ
そんなことを?」と感じていることに、気が
つかないのです。
こうした不毛なやりとりが起こる原因も、問題には
「正解のある問題」と「正解のない問題」の2種類
があること、
正解のない問題にはさまざまな意見がありうること、
意見には正しいも間違いもないこと、そして、
意見が人によって違うのはあたりまえ、と いう
基本的なことが、理解されていないからでしょう。
私の目が見えなくなったのは二十七歳の
ときだった。
激しい痛みをともなって、徐々に視界が
ぼやけていった。
視力の低下が著しく入院を余儀なくされた
ときには、とうとう「べーチェットさん」にかなわ
なくなったのかと思って、悔しくて悔しくて
仕方がなかった。
厚生省指定の難病の一つであるべーチェット病
だと診断されたのは、高校三年生のときだった。
体育の時間にクラス全員で列を組んで
マラソンをしていたときのことである。
突然、足に劇痛が走った。
こらえきれずに転倒した。
足の腫れがひかずに病院でいろいろな検査
を受けていくうちに、ベーチェット病だと診断された。
病名がわかっても、どんな障害が出てくるか
ということは、その時点ではまだわかっていなかった。
体に宿ってしまった病と仲良くしようと、私は
「ベーチェットさん」と名づけて、なだめすかして
十年あまりを平和に過ごしてきた。
新潟から東京に出てきて、建築会社でOLをしていた。
この平凡な生活が、ずっと続くのではないか
と思っていた。いや、そう願い続けることで、病気
を克服できると信じていたかった。
ところが、「ベーチェットさん」はそんなに優しくなかった。
目の痛み、全身を襲う倦怠感、増していく内服薬、
注射、度重なる手術……。
難題を押しつけるだけ押しつけておいて、
一向によくなる気配は見えない。
それどころか、ますます窮地に追い詰めていく
あまりの意地の悪さに、ほとほと疲れ果ててしまった。
十か月あまりの入院の末に、退院することになった。
回復したからではない。濃い乳白色の世界は、
もう微動だにしなかった。
心配して、上京してきた母の腕につかまって、
週に一度だけ薬をもらいに病院へ通った。
外界との接触はそれだけだった。
テレビやラジオの音を耳にするのも煩わしくて
仕方がなかった。
私にとって見える世界が失われたことは、
世界が失われたことに等しかった。
ただただ、ベッドの上に縮こまって、
何も考えたくなかった。
一年六か月の間、私の巣ごもりは続いた。
その間、母が私を守る防波堤になってくれた。
「がんばりなさい」とか「そろそろ再起をはかったら」
などといったことは一言も言わなかった。
「いった豆でない限り、かならず芽が出るとき
がくるんだから」。母が繰り返し言ったのは
その一言だけだった。
そんな生きているのか、死んでいるのか
わからないような私の魂を呼び戻すきっかけ
となったのは、
大宅壮一さんがお書きになった『婦人公論』
の一文だった。
「野球の試合にダブルヘッダーがあるように、
人生にもダブルヘッダーはある。
最初の試合で負けたからといって、悲観することはない。
一回戦に素晴らしい試合をすることができたのならば、
その試合が素晴らしかった分だけ、
惨敗して悔しい思いをしたならば、悔しかった
分だけ二回戦にかければいい。
その二回戦は、それまでにどれだけウォーミング
アップをしてきたかによって勝敗が決まってくる」
私の二回戦はこれから始まるのだと思った。
一回戦とは違って、目の見えない私で戦わ
なければいけない。
だが、一年半というもの、二回戦を戦う準備
をさせてもらった。
もうウォーミングアップは十分だと思った。
いてもたってもいられない気持ちで東京都の
福祉局に電話をかけ、戸山町にある
心身障害者福祉センターを紹介してもらった。
目が見えなくなって、何から始めたらいいのか
わからない
私にとって、まず最初に必要なのは一人で
歩けるようになることと、点字を読めるように
なることだった。
やっと外界と接触する心の準備のできた私を
後押しするように、電話で相談にのってくださった
先生がおっしゃった。
「あなたは運のいい人ですね。
ちょうど視覚障害者向けのカリキュラムにあきが
出たところなのですよ。
明日いらしてください。明日来られなければ、
他の人に順番をまわしてしまいますからね」
舞い込んできた幸先のよさに喜び勇んで、
新しい人生を出発することになった。
そんな私の二回戦の試合模様が、先に
『ベルナのしっぽ』という一冊の本にまとまった。
結婚して、子供を産み、盲導犬とともに暮らす
奮闘ぶりが描かれている。
大竹しのぶさん主演のドラマとして、フジテレビ
でも取り上げていただいた。
こうして、あの空白の一年半から立ち直ってみて
思うのは、生きる勇気を失わない限り、私たちは
たいていの困難を乗り越えていくことが
できるということである。
不幸のどん底にいるときには、どこまでも奈落の
底に落ちていくのではないかと思えてくる。
だが、それをこらえてじっと痛みを耐えていれば、
かならず明るい光は見えてくる。
その一つひとつの困難を乗り越えていくことが
生きるということなのではないかと思う。
そして、一試合目がうまくいかなくても、
人生にはときに二試合目が巡ってくる。
そのためのウォーミングアップを続けていく
ことこそが、次の一歩を踏み出すために
もっとも大切なことなのだと思う。