貧者の一灯 ブログ

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貧者の一灯・一考編

2023年01月01日 | 貧者の一灯




















脳性まひの小林さんは体が思うように動かせない。
言語障害もあり、思っていることがうまく話せない。

その悔しさと60年以上も付き合ってきた。

そんな小林さんが言う。 「健康な体をもって
生まれたのに、その体を悪いことに使って
自分の人生を台無しにしている人がいる。

せっかく不自由ない体で生まれてきたのだか
ら立派に生きてほしい」と。  

健康な人ほど軽く受け流してしまいがちな
言葉だ。

確かに体の一つひとつの機能をどううまく使お
うかなど普段はあまり考えない。

小林さんは幼い頃に受けた機能訓練のおかげ
で生活自立ができるようになり、結婚もし、子ども
にも恵まれた。

それも「この体で生きていく」という若き日の決意
があったからだろう。  

元中学教師の腰塚勇人さんは、ある日突然
体の機能を失った。

スキーをしていた時の事故で首の骨を折った。
2002年3月、36歳の時だった。  

集中治療室で目が覚めた時、待っていたの
は手足が全く動かない現実だった。

「人生、終わった」と思った。

教壇では「命の尊さ」を生徒に訴えてきたのに、
その時の正直な気持ちは「死にたい」だった。  

食事も風呂も排泄も看護師の介助なしには
できなくなった。 その屈辱の日々は耐えがた
く、毎日死ぬことばかり考えた。  

ある日、優しく声を掛けてきた若い看護師に
「おまえに俺の気持ちが分かるか。 偉そうな
こと言うな」と口には出さなかったが、そんな
気持ちでにらみつけた。  

その気持ちが伝わったのか、看護師は「私、今、
腰塚さんの気持ちを考えず言ってしまいました。
ごめんなさい。

でも本気で元気になってもらいたいんです。
お願いですからお手伝いさせてください」、
そう言って泣きながら病室を出ていった。  

その夜、腰塚さんは何時間も泣いた。  

「ここに俺の気持ちを分かろうとしてくれて
いる人がいる」と。  

4月を前に学校側は腰塚さんを3年1組の
担任にした。 「ふざけるな。俺は寝たきりだ
ぞ」と言ったが、見舞いに来た学年主任の
先生は、「戻ってくるまで私が代わりに担任
をします。

卒業式では必ず腰塚先生が卒業生の名前
を呼んでください」と言った。  

リハビリで24歳の理学療法士から「腰塚さん
の夢は何ですか?」と聞かれた時も、

「ふざけるな。こんな体で夢なんか持てるか」
と思ったが、リハビリの度に聞かれるので、
半ばふて腐れて「夢はもう一度教壇に立つ
こと」と言った。

そして「絶対無理だと思うけど」と付け加えた。  

リハビリは過酷を極めた。 何回やっても動か
ない手足。 諦めそうになる度に3年1組の生徒
の顔が浮かんだ。

「待ってろよ!」と、また奮起した。  

「それまでは『できない理由』ばかり言ってきた。
でもあの時、彼らの存在は『諦めない理由』
になった」と当時を振り返る腰塚さん。

そして事故から4か月後、杖をつきながらでは
あったが、腰塚さんは本当に教壇に戻ってきた。  

宮崎市立赤江中学校で開催された創立70周年
記念講演会に腰塚さんが登壇した。

講演会の後、「70周年記念に石碑を建て、腰塚
さんのメッセージを刻もう」という話になった。

「坂村真民先生の『念ずれば花開く』という石碑
は全国にあるけど、腰塚さんの石碑はまだ
どこにもない。ここを第1号にしよう」と盛り上がった。  

先月6日、除幕式があり、腰塚さんも駆けつけた。
正門近くに建てられた石碑には彼のメッセージ
「五つの誓い」が刻まれていた。  

口は人を励ます言葉や感謝の言葉を言う
 ために使おう/

耳は人の言葉を最後まで聴いてあげるために
 使おう/

目は人のよいところを見るために使おう/

手足は人を助けるために使おう/

心は人の痛みがわかるために使おう /


author:日本講演新聞 : 水谷もりひと 社説より…












1990年8月2日、湾岸戦争というのが起こった。
この戦争はイラクのフセイン大統領という、
アメリカ嫌いで暴力好きな大統領が起こした
戦争と言われている。

フセイン大統領の言い分は「もともとクエートとい
う国はイラクのものだった、それを昔、欧米人が
きて暴力で占領し、クエートと言う国を作ったの
だ」というものである。

それはそれで一理あるが、軍隊という名の暴力
集団を持つアメリカは「多国籍軍」という組織を
作って戦った。

日本ではイラクの暴力は悪い暴力であり、アメリカ
の暴力は「正しい暴力」と考えるのが一般的で、
アメリカ兵が死ぬと問題になりイラクの兵士が戦死
しても知らん顔だった。

アメリカの暴力が正義の暴力であるのは、アメリカ
がイラクより強いからである。

つまり、アメリカが勝つことは「正義は必ず勝つ」
と言う信念を満足させる。しかし、正義が勝つの
ではなく、腕力の強い方が勝ち、腕力の強い方
を正義と定義していると考えるべきだろう。  

このように人間社会の倫理も「暴力」を基盤にし
ている場合が多い。また自分自身の行動を反省
しても動物としての自分が顔を出していることも
認めざるを得ない。    

1925年にアメリカ・テネシー州デイトンで起こった
「スコープス事件」は有名な事件である。

当時学校の教師であったジョン・スコープスが
授業中にダーウィンの「進化論」を生徒に教え
たかどで訴えられた。

日本の常識ではダーウィンの進化論は「学説」
であり、しかもヒトがサルから進化したという考え
方は正しいものとされている。

スコープス事件の被告スコープス この事件は
当事者達が最初から仕組んでいたこともあるが、
テネシー州ばかりでなくアメリカ全土で話題に
なり、その年の7月10日から20日に裁判が開か
れ、教師のスコープスは、「進化論を学校で教
えたかどで有罪」という判決を受けた。

アメリカの中南部ではキリスト教の信仰が厚く、
今でも法律で進化論を教えることを禁止して
いる町が多く、つい最近のレーガン大統領の
時代にも「生物の授業で進化論を教えるなら、
キリスト教の創造紀も同時に教えるべきだ」と
言う運動が盛んに行われたことも知られている。

たしかに創世記に従えば神がこの様を作られた
のは「紀元前4,004年10月23日の午前9時」と
はっきりと判っている。

機関車を正面衝突させた瞬間 進化論の争いは
スコープス事件以来も続き、論争に疲れ果てて
しまったアメリカでは、リノイ州オーロラ市で中央
博覧会が行われたのを機会に「進化論と反進化
論の決闘」をすることになった。

中央博覧会の会場に線路を引き、その上に大き
な機関車「進化号」と「非進化号」を据え、この
二両の汽車にそれぞれ二両の客車をつけて
お互いの方向へ走らせた。

このときの機関車の時速は48キロ。お互いの速度
は96キロであった。

衝突して脱線したほうが負けで、負けの方の説
が誤っているという決め方である。

つまり「正義は勝つ」「暴力は正義」という判断
基準である。

実際は衝突直後に両方の汽車が脱線して勝負
はお預けになった。  

「この世の中は神が支配しており、神は正しい方
に味方するはずだ」、

つまり正義は勝つと言う考えに基づけば、決闘
をすれば神は正しい方を助けるに違いない、
人間の考えなどは神様に比べれば、浅はかな
ものなのだから、考えたり議論したりするより、
決闘して神様に聞けばよいじゃないか、と言う
わけだ。  

トルストイの「戦争と平和」にも決闘場面が出てくる。

ピストルが数段巧いごろつきに、ピストルを初めて
握る平和主義者で「正義」のピエールが決闘を
挑むシーン。

トルストイはピストルを握ったこともないピエール
が勝つ筋書きを作り、読者も「正義」のピエール
が「暴力主義のごろつき」と決闘した勇気と「暴力」
でやっつけたことで、喝采する。  

先ほどのイラク戦争の場合でもそうである。

「強い方が正義」というのを現代風の理由付けを
すれば「強いと言うことは結局みんなの支持を
得ていることであるので、それが正しい」と言う
ことになる。

第二次世界大戦で日本が負けたのは日本が
「悪い」からであって「弱い」からではない。

日本人は深く反省して、天皇制を止め、軍を
解散し、ひたすら経済のみを追求すべきである。

それに対して「勝った」アメリカは「強い」から
勝ったり、「資源が豊富で科学技術が上だから」
勝ったりしたのではない。

神様が「正義のアメリカ」を勝たせたのであるから、
勝ったほうのアメリカは戦争をし、原子爆弾を落と
しても大統領が虐殺罪で銃殺になったりしない。

私たちも暴力が正義として行動していないだろうか?

「倫理」が「暴力を正義」を基礎にしていない
だろうか?

人間は生物の中でも「頭脳の叡智」によって暴力
から脱離できる種なのか、あるいは暴力を正当化
する言語を有しているだけか?

物事を一面的に見てその日、その日を暮らすこと
はできるし、多くの場合、私たちの生活はそのよう
に送られる。

その中で何回かは深く生命倫理や人間の叡智
に考えを到らせることは、それだけ人生を豊か
にするものだ。…