貧者の一灯 ブログ

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貧者の一灯・特別編

2023年01月10日 | 貧者の一灯

















※ プロポーズ そして天国の夫へ

パパと出会ってから結婚までは二ヶ月ちょっと、
かなりのスピード婚でした。

パパの叔母さんの家で初めて会った。あの日は
十月の最後の日曜日でした。

三十七歳を目前としていた私は、お見合いも
し尽くして、もう結婚はどうでもいいと思い始め
ていた時で、叔母さんにパパを紹介したいと
言われても、「もういいですよ」と断っていた。

それでも「今日来るから来て」と強引に決めて
会うことになった。

叔母さんの家で初めて会った時、緊張してる
様子が伝わってきた。こちらは、お見合いの
ベテランで慣れたもので淡々と話した。

初めて会ったのに話しやすかったこと、共通
の友達がいたことなど、憶えています。

自分の所得や貯金など、その場ですぐに教え
てきたのには、かなりの衝撃を受けました。
(何だ、これは!)と思った。

その日は、パパは、叔母さんの家に泊まり、
私は家に帰りました。

次に会う約束もなかったので取りあえずこれ
で終わり、と思っていた。

翌日の夜電話があって「俺と結婚してください」
と言ってきた。(ハァー……何だこれは?)
かなりビックリした。

そこから年明けの一月十五日に結婚してし
まった。嵐のような二ヶ月でしたね。

かなりの年齢になっていたから、これくらい
ビックリしないと結婚までは、たどり着かな
かったかも。

お互いに「早く結婚しなければ」みたいな焦り
もあって「あっ」という間の結婚になった。

結婚式もドタバタで波乱万丈の幕開けだった
んだと今つくづく思う。

パパのプロポーズは「俺を幸せにして下さい」
だった。結果、幸せにはしてあげられなかっ
たかも。

いまさらだけどプロポーズの返事はしないまま
でしたね。勢いだけで突き進んだ結婚でした。

二十年を振り返ると私は大事にしてもらったと
思える。良いことも悪いことも色々あったけれど
私の夢を叶えてくれたのはパパだった。

二人の子供に恵まれて、ママになれた。

自分で子育てしたいという一番の夢も叶えて
くれて、子供のことを中心とした家庭になった
と思う。

パパの予想をはるかに上回っていたと思い
ますが……。 「愛してる」とか「大好き」とか
たくさん言ってもらった、

思っていても口に出さない男の人がほとんど
だと思いますがパパは口に出して言ってくれた。

「尚子ちゃんしかいない」
「尚子ちゃんのために働いている」
「子供は可愛いけれど一番は尚子ちゃんだよ」。

もっと、たくさんあったかもしれない。心で思って
くれた分も考えたらかなりすごいね。

短い結婚生活でしたが密度の濃い時間だった
と思いたい。

今は、もう何も聞けない、答えてもらえない、
パパも少しでも幸せだったと思えたことがあっ
たならいいんだけどね。

※ 将太の決心

パパが亡くなって二年くらいたっていたと思う。
リビングで何かしていた時、将太が話し始めた。

「僕ねー」と 「もしも、パパが病気で死にたくない
のに、死んだとしたら、僕はもっと苦しくて悲しく
て耐えられなかったかも」

「パパは死にたくて死んだんだよね、だから、
僕は、これで良かったんだと思う」。

突然の将太からの言葉に何か決心みたいな
ものを感じたことを憶えています。

長い時間をかけて、苦しい中から導き出した
将太なりの答えだったんだろうか。

胸が苦しくなった。
傷ついた将太のハートが見えた気がした。

どんなに悩み、苦しんだのだろうか……。

私の眼には将太のハートから血が流れている
のが見えた気がした。

(ねえパパ……あなたの大切な息子がこんなに
傷付いて苦しんでいる姿を見てましたか? )

もちろん、雄太も……。そして私も……。

※ 今になって


幸せって、どんなことなのか知っていると思っ
ていた。ドラマや、歌でも数えきれないくらい
語られている。

何でもない平凡な毎日が幸せなんだって。
でも失くしてみないと本当の意味は分かって
いなかったんだと……。

愛は強く揺るがないものと思っていたけど、
愛されている裏付けがあっての愛は強かっ
たんだと気付く。

今、一方通行の愛がどれだけ頼りなくて不安
定なものか思い知らされている。

パパに愛してもらって、それを当たり前のよう
に過ごしていた日々がもう帰ってきません。
完成しないパズル、何とか何か見付けて完成
させたいのに穴の空いたままです。

ちゃんと伝わっていただろうか。大好きとか
愛しているとかパパほどではないけれど、
「パパってすごいね」「カッコいいね」なんて
誰がいても言えた、皆にも聞いて欲しかった。

自慢のパパでした。

子供が生まれて子供が一番みたいになった
時、まさかのヤキモチ。ビックリした。 「子供
はいつか離れていく、だから俺は尚子ちゃん
が一番なんだ」って。

その時の気持ちはね……「ハァー何なんだ、
面倒くさい」だったかな。 年子で産んだ私に
は子供とパパのどっちがなんて考える余裕
はなかった。

いつも、自分のことを一番にして欲しかった
んだよね。子供たちがだいぶ大きくなった頃
にパパの気持ちには気付いたんだけど思う
ようにはしてあげられなかった。

もっと早くパパの期待に応えていたら今の
私は違った人生を歩んでいたのかな?

今となってはどうにもならないことですが。
何を思っても考えても「もしも〇〇だったら」
と後悔ばかりで空しくなる。

現実から逃げ出したい気持ちばかりで何も
変わるわけではない。「何やってんだ」そう
パパが言ってそうだね。。…












人生100年時代。現在の70代の日本人はかつて
の70代とは違います。若々しく、健康になった70代
の10年間は、人生における「最後の活動期」とも
言えます。

70代の過ごし方が、その人がどう老いていくかを
決めるとも言えます。


1974年、アメリカの老年学の権威であるシカゴ
大学のベルニース・ニューガートンは、それまで
65歳以上を高齢者とみなしていた社会に対して、
75歳くらいまでは、体力的にも、知的機能的にも
中高年とたいして変わらないと提起します。

そして、その世代を「ヤング・オールド」と呼びました。  

さらに、75歳を過ぎるころから、認知機能が落ちて
きたり、病気などで介護が必要な人も出てくる世代
ということで、「オールド・オールド」と定義しました。

これはのちに、日本における前期高齢者、
後期高齢者という考え方につながっていきました。  

しかし、ニューガートンがこの考え方を提唱した
1970年代当時の日本では、まだ、75歳の日本人
たちは、若いころの栄養状態も悪く、身体も小さく、
老いるのがいまより早かったのです。

そのため、アメリカの高齢者のように元気と言える
状況ではありませんでした。  

それが1990年代に入ったあたりから、日本でも
元気な高齢者が増えてきました。

1997年には、『75歳現役社会論』で、75歳くらい
までは、知的機能や体力、内臓機能など、中高
年のころと大差なく、現役時代同様の生活がで
きるということを説きました。
     
そして、当時からさらに20年以上が経ったいま、
医療はさらに進歩し、70代の人の要介護比率も
改善してきています。

その現実を踏まえれば、現在の日本では、75歳
ではなく、80歳までは、多くの人が現役時代の
ような生活を送れる可能性がある社会になって
きたと言えるでしょう。  

これまでは70代ともなると、大病を患ったり、病院
での生活を強いられたり、介護が必要となったり
する人もそれなりにいましたが、

今後は、自立して多くの人たちが70代を過ごす
ことになっていきます。

70代の10年間は、ある意味、中高年の延長で
生活できる期間となったのです。  

それは、人生における「最後の活動期」と言って
もいいと思います。70代が活動期になったからこそ、
その過ごし方が、80代以降の老いを大きく左右
するようになったのです。  

70代であれば、身体も動くし、頭もはっきりして
いますから、日々の生活の心がけ次第で、80代
以降の健やかな生活につながります。  

ただ、70代には特有の脆弱さもありますから、放
っておいたら衰えは進みます。だから意図的に、
心がけることが大事になってきます。

「人生100年時代」に 70代はターニングポイント  

現代の日本において、70代の過ごし方が重要性
を増してきた理由には、超長寿化によって、老い
の期間がこれまでより延長するようになってきた
という点も挙げられます。  

そもそも、これまで日本人は、戦後の栄養状態
の改善によって、大きく寿命を延ばし、前の世代
よりも若々しくなってきました。  

『サザエさん』の連載が始まったのは1947年です
が、父親の磯野波平は当時、54歳の設定でした。
いまの私たちから見ると、どう見ても60代半ばに
見えます。それくらい、現代の日本人は若返っ
てきたのです。
     
しかし、この栄養状態の改善が、人々の若返り
や寿命の延びに寄与してきたのも、1960年くら
いに生まれた人たちまでで終わったと考えられます。

実際、日本人の平均身長の推移も、戦後、急速
に伸びてきましたが、ここ20年くらいは伸びが止ま
っています。

もはや栄養状態の改善は、日本全体に行きわたり、
そのことが寿命の延びを牽引していくという時代は
終わっているのです。  

しかし実際にその後も、日本人の平均寿命は延
び続け、これからも延びていくと予想されています。

これは、医学の進歩がそうさせるのです。  

日本人は戦後に劇的に若返ってきた体験をして
いるので、「人生100年時代」などと言われると、
いまよりさらに若返りが可能になり、寿命が延びて
いくと考える人もいますが、それは正しい認識で
はありません。  

80歳や90歳になっても、いまの70代の人たちの
ように元気に活躍できるようになって、人生の
ゴールがどんどん後ろにずれていくというのは
幻想でしかありません。  

若返るのではなく、医学の進歩によって、「死な
ない」から超長寿になるというのが「人生100年
時代」の実像です。

伸長した老いの期間を 左右するのが70代になる  

80歳にもなれば、みな老いに直面することになり
ます。しかし一方で、寿命だけは延びていく。
これは、私たちの人生設計を大きく変えることに
なるかもしれません。

これまではせいぜい10年ほどだった「老い」の
期間が、15~20年に延長する人生が標準に
なっていくからです。  

今後は、伸長した老いの期間をどう生きるかが
重要な課題になっていくでしょう。

そして、その延長した老いのあり方を左右する
のが、人生終盤の活動期である70代ということ
になります。  

寿命がますます延びていく「人生100年時代」
だからこそ、70代はますます重要性を増して
きているのです。 …