病院の「3カ月ルール」をご存じだろうか。
入院生活を送っていた患者が「治療済み」を理由
として90日以内に退院を促されるものだ。
自らの最期を通い慣れた病院で迎えられると思っ
ていたら、別の病院や介護施設などに移らざるを
えなくなるケースがある。
人生の終わりに向けた「終活」が注目される中、
入院して安心とはいかない事態も想定しておく
必要がありそうだ。
「そろそろ退院の準備を始めてもらえないでしょうか」。
東京都内に在住する40代の専業主婦Aさんが医
師から告げられたのは、高校生の長女が夏休み
中の8月上旬だった。
一人娘であるAさんの父親は胃がんが進行し、
78歳の誕生日を迎えた5月下旬から入院している。
家具メーカーに定年まで勤めた父親に3つ年下
の母親は寄り添ってきたが、食欲や体重の低下
を見かねて強く入院を勧めた。
「お父さんには悪いけど、自宅での介護は高齢の
お母さん一人では大変。とりあえず病院に入って
いれば、お母さんも安心ね」。
父親の最期を予感し、こう考えていたAさんは
病院からの思わぬ電話に困惑を隠せなかった。
ほとんど寝たきり状態で退院 担当医は「できる治
療はやりました。今は症状も安定しています。
お父様の年齢や身体を考えると、手術もおすす
めできません。そろそろ3カ月になるので退院を
考えていただきたい」と告げる。
看護師によれば、入院前に比べて父親の体重は
5キロほど落ち、ほとんど寝たきりの状態だが、1日
3回の服薬で発熱や痛みは抑えられているという。
状況を理解できなかったAさんは「以前は自分で
車椅子に乗って移動したり、トイレにも行ったりで
きたのに今はできない。
そういう状態で退院というのは困ります」と食い下
がった。だが、看護師は「治療していない患者様
に3カ月以上いてもらうことは難しいです。これは
病院の決まりですから」と繰り返す。
一度は「最期の場所」と覚悟した入院先から治癒
したわけでもないのに退院を余儀なくされるなん
て思いもしないことだった。
その理由は大きく分けて2つある。
1つは、病院のベッド数には限りがあり、医療機関
としての機能を維持していくためには急患を受け
入れられる体制を保つ必要があることだ。
緊急性を要する患者に医療を提供する病院は、
いつ、どのような状態の患者が訪れるのか分か
らないため、一定の余力を持ちながら入退院の
運用に努めるケースが見られる。
新型コロナウイルスの感染拡大時に病床が埋まり、
医療提供体制の逼迫がニュースで取り上げられ
たが、そうした状況下でも可能な限り医療資源を
向けられるよう準備している。
2つ目は診療報酬制度の問題が存在する。
医療機関が受け取る診療報酬は高齢者が長期
入院すれば低くなるような設計になっている。
超高齢社会の到来で膨張する医療費を抑制
する一環で、一般病棟で90日を超えて入院を
継続する場合には病院の利益が少なくなって
しまう仕組みなのだ。
このため、早いところでは「治療済み」を理由に
2週間で転院や介護施設に移るよう検討を促す
ことがある。
母親と一緒に病院に赴いたAさんは「退院する
といっても、自宅での介護は大変。いったい、
どこに行けば良いのでしょうか」と半ば喧嘩腰
で伝えた。
すると、医師は「近くに緩和ケアをする病院があ
るので、そちらに行って入院予約を取ってきて
もらえませんか」と淡々と答えるだけだった。
やむなく教えられた「転院先」に向かうと、追い
打ちをかけるような事態に直面する。
転院先候補の緩和ケア病棟は高額だった
「お父さんの場合、1カ月で50万円以上は必要
になりますね」。緩和ケア病棟を持つ医療機関
の看護師は入院費用が高額になることの説明
を始めた。
もちろん、入院治療や手術などで医療費が高額
になった場合、加入する公的医療保険に申請
すれば自己負担限度額を超えた分が取り戻せる
「高額療養費制度」は適用できる。
これまで入院してきた病院では、保険適用され
る診療で支払った額が「ひと月」で上限額を超
える場合、その超過分の支給を受けることが
できた。
上限額は年齢や所得水準によって異なるものの、
Aさんの父親の自己負担額は1カ月で10万円程
度だ。
だが、高額療養費制度では先進医療にかかる
費用や入院時の食事代、差額のベッド代が対象
外となる。緩和ケア病棟は全室個室で、すべて
の部屋にテレビや洗面所、トイレが備え付けられ
ている。
ベッド代として1日あたり約1万7000円、食事代
として1日約1500円などの自己負担が必要との
ことだった。
父親は医療保険に未加入であり、月額約20万円
の年金で暮らす母親が一気に5倍に膨れ上がる
入院費を支払い続けることは困難だ。
老後のために夫婦で貯めた預貯金は人並み程度
にあるものの、残される母に少しでも遺しておきた
いとの思いも脳裏をよぎる。
症状緩和、終末期ケアを目的とする緩和ケア病棟
は、1990年に緩和ケア病棟入院科が診療報酬制
度に新設されたことを背景に整備が進められてきた。
設置主体は国や地方公共団体、大学、民間病院
などで、全国にある病床数は一般病床約90万床
の1%程度に相当する。
がん患者の死亡者数は年間40万人近くになって
いるが、その死亡場所は診療所・病院が約7割を
占め、緩和ケア病棟も1割強に上る。
説明した医師は「この10年くらいで緩和ケアを利用
する人は増えていますよ。患者本人も家族も安心
して過ごせるようにサポートしていきます」と語る。
「入院破綻」を懸念し断念
たしかに、がんと診断されてから家族は辛い日々
を送ってきた。父親の痛みや気持ちを考えれば、
最期は少しでも安らかに迎えてほしいとの思い
はある。
しかし、Aさんは緩和ケア病棟に父親を入院させる
ことを断念した。
貿易会社で働くAさんの夫の年収は約800万円
あるが、大学受験を控える長女や私立校に通う
次女の教育費が膨らみ、父親の入院期間が長
引けば「入院破綻」を招きかねないとの考えに
いたったからだ。
「要介護4」と認定された父親は自宅に戻り、訪問
医療・看護・介護をフル活用して療養生活を送る。
それでも、おむつ代などを含めれば1カ月に15万
円程度はかかる。
しかし、「やっと、自分の家に帰ってこられたよ」
と笑顔を浮かべる父親の表情は家族の負担を
和らげる。
「緩和ケア病棟に入っていたほうが良かったと
感じる日がいつか来るかもしれない。
何が正解なのか分からないけど、最期を一緒に
迎えられればお父さんは嬉しいのではないかな」。
Aさんは自分に言い聞かせるように母親の肩を
なでた。
厚生労働省によると、2019年にがんと診断された
人は約100万人に上り、死亡者は全体の3割近く
を占める。
高齢化を要因に増加し続けており、部位別では、
男性は
「前立腺がん」(16.7%)、「大腸がん」(15.5%)、
「胃がん」(15.1%)が多い。
女性は「乳がん」(22.5%)が最も多く、次いで
「大腸がん」(15.7%)、「肺がん」(9.8%)と続き、
がんは約40年間も日本人の死因トップだ。
人によって闘病期間は異なるものの、通院先に
入院できれば最期まで安心とは言い切れない。
老後に向けた資産形成への関心は強まっている
が、加入する保険の種類や退院後の生活イメージ
も確認しながら「終活」すべきであることも忘れて
はならない。…
※
東京・大田区の施設 70種類を試用
介護事業者もエンジニアを雇い、ロボットと人間が
共に働くのが当たり前の時代が訪れるかもしれない。
「この作業は将来的にAI(人工知能)で自動化
できそう」「さらに効率化できますね」
そんな近未来を感じさせる介護施設がある。
東京都大田区の特別養護老人ホーム
「フロース東 糀谷こうじや 」。リビングの一角、
複数のモニターが並ぶ様子から、職員が「コック
ピット」(操縦席)と呼ぶスペースで、介護職員と
エンジニアが導入中のロボットについて話し合っ
ていた。
転びそうな人を見つけるシステム、
腹部に取り付けて排尿が近いことを知らせる機器、
マットレスの下に敷いて睡眠状況や呼吸、心拍数
を測定できるセンサー……。
施設内で働く複数のロボットがモニター上にデー
タを表示し、コックピットにいながら入居者の様子
が把握できる。
異変があれば各職員が装着したヘッドセットに
通知音が鳴り、持ち歩いている端末で様子を
確認できる。
これによって、夜間は居室の巡回にかける時間
が半分以下になった。
電動立ち乗り式二輪車を利用することで、職員
が歩く距離も半減した。
エンジニア雇用
経営する社会福祉法人「善光会」は、「非効率な
介護業界に一石を投じたい」と、投資会社のトップ
が寄付を元に設立した異色の組織だ。
最高執行責任者(COO)の宮本隆史さん(33)
は、「人手も財源も不足が深刻化する中で、どう
良いサービスを提供するか、モデルを作りたい」
とロボット活用の狙いを話す。
2009年からロボットを導入し、13年には介護ロ
ボットの研究室を設立。約10人のエンジニアを
雇用し、自前での開発も手がける。
メーカーの実証実験に協力して導入費を抑え、
簡単な会話ができる人型ロボットや歩行を支援
するロボットスーツなど、試してきたロボットは
約70種にのぼる。
介護ロボットの活用などで、同施設では介護、
看護職員1人あたりが対応する入居者の数は
15年の1.86人から、現在は2.68人にまで
上昇した。
全国平均は2人程度。入居者180人の同施設
でみると、約30人の職員を減らせた計算になる。
改善点を議論
しかし、全国的にはロボット活用に消極的な事業
者は多い。介護ロボットの普及に取り組む「テクノ
エイド協会」の五島清国・企画部長(50)は「どう
いう人にどのタイミングで使用するか、使いこなす
のが難しい。
日常の仕事に追われ、『手でやった方が早い』
と諦めてしまいがち。心理的な抵抗感もある」と
説明する。
善光会でも、活用を始めた当初は、「介護は人
の手でやらないと」と抵抗感を持つ職員が多かった。
エンジニアとして10年から同会で働く徳山創室長
(38)は、「理路整然とメカニズムを説明してもみん
な『ぽかーん』という感じ。
飲みに行って関係を作り、『これを使ってみてほしい』
とお願いしていた」と振り返る。
4、5年前までは、高齢者が起き上がってもセンサ
ーが反応しない、大きすぎて角を曲がれないなど、
使えない製品もあったという。
今は2週間に1回、介護職員とエンジニアが会議
を開き、新たなロボットの導入や改善点などを議論。
活用に前向きな職員が働くフロアで先行導入し、
全体に広げる方法を取ることで「保守派」は減少し、
職員から「こういう機器を試してみたい」と盛んに
意見が出るようになった。
入居者の抵抗感は、職員が想定するほどはない
というのが実感だそうだ。
例えばコミュニケーションロボット。「子どもだまし
のようで嫌」と気にする職員もいたが、入居者は
「こんなに小さいのに何でも歌えるのね」と、かわ
いがっている。
「職員は多い方がもちろん楽。けれど、そうは
言っていられない時代が来ますから」と、介護
職員の谷口尚洋さん(28)は力強く語る。
介護ロボットが人手不足解消の切り札になるには、
未来を見据えた介護現場の努力が求められそうだ。
ニーズに合致しない商品も
人手不足対策として期待される介護ロボットだが、
普及には課題も多い。
国は、見守りセンサーや排せつ支援など介護ロボ
ットの重点分野を2012年に定め、13年度から開
発費の補助を開始。
16年度には52億円を投じ、介護ロボット購入代金
の全額を補助する大盤振る舞いを実施し、約5000
施設から応募が殺到した。
しかし、「使いこなせず、倉庫に眠っている物は少
なくない」(開発関係者)のが現状だ。
矢野経済研究所によると、介護ロボットの市場規模
は、18年度見込みで約19億円。「20年までに
500億円」という国の目標には遠く及ばない。
今年度から、自治体が導入費の半額を補助する
制度について上限を10万円から30万円にアップ。
開発先行で介護現場の声が反映されない商品が
散見された反省をふまえ、開発のアイデア段階で
メーカーと介護事業者をマッチングする事業も拡充
した。
テクノエイド協会によると、介護ロボットは、1台
20万~100万円が中心だが、値下げの動きも
ある。
それでも、「装着に時間がかかり使いにくい」
「高額すぎる」などの理由で普及していない商品
は多い。
五島企画部長は、「現場のニーズに応えきれておらず、
メーカー側の努力が必要」と指摘している。…
author:社会保障部・野口博文、田中ひろみ