※ ニキビは日本人のほとんどが経験する。
※ ニキビができることでテロメアが長くなり、
ニキビができないとテロメアが短くなる。
※ テロメアが短いと老化現象が起きる。
日本人の90%以上が経験しているニキビ。
10代後半、中学生や高校生で発症する人
が多く、青春のシンボルなどともいわれる。
10代でできるニキビを思春期ニキビ。
成人してからできるニキビを大人ニキビという。
思春期の若者にとって見栄えの悪いニキビ
は大きな悩み。顔中にニキビができたり、
治ってもすぐ新しいニキビができるなど、
ニキビに悩まされる人からすれば、
ニキビができない、あまりニキビがない友達は
羨ましく妬ましい存在である。
しかし、中学、高校時代でニキビができなか
った人は、多くのニキビに悩まされた人と比
べて老化が早く始まる。
染色体の末端部にはテロメアといわれる遺伝子
を保護する部分がある。テロメアは少しずつ短く
なっていく。
短くなった結果、老化現象が起こる。
男性ホルモン、細菌、皮脂などの相互作用
によって、毛穴が炎症を起こしニキビが発症
するという説が有力とされているが、
ニキビができる詳しい原因は解明されて
いない。原因はわかっていないが、ニキビ
がたくさんできることで、テロメアが短くなる
のが遅くなる。
多感な時期で、ニキビ予防など心がけたい
気持ちもあるだろうが、30代、40代と歳をと
ってから、シワがなくハリのある若々しい肌を
手に入れるには、
10代でたくさんのニキビに悩まされておく
方がよい。
ちなみに二十歳を過ぎてからの大人ニキビでは、
テロメアへの影響はほとんどない。 …
……
※ 第二章 夕日と……。夢人と……。
天気の良い日の朝礼は暖かくとも体はユーラ
ユーラと夢の中。
保健室では常連、それでも給食が食べれる間
は体はもっていた。
或る時期、給食代が払えないらしく、その時間
は校庭の太い木の幹の陰で誰にも見つからな
いように石を蹴ったりしながら時を潰していた。
“美夜子、こんなとこおったんか”と先生の声、
“こっち来い来い”と付いて行った先は用務員
室、先生はアルミの弁当箱を取り出し蓋の上に
ご飯、何種類かのおかずを取り分け
“さあ一緒に食べよう”と割り箸をさいて私に持た
せる。 飢えている私は恥ずかしさはあっても無我
夢中でむしゃぶりついたに違いない。
或る日、いつもの様に、用務員室に行くと先生が
何か容器で米を研といでいる、
“先生、何してるん”と聞くと“お前に炊きたての
メシ食わしてやるからな”と火の上に置いた。
兵隊さんが持っている様な形をした変わった器
だった。 先生は火をおこしたり息を吹きかけたり
忙し気だった。
“さあ、炊けたぞ”と私より自分が嬉しそうにその
器の蓋に湯気でホカホカした真っ白なご飯を入
れてくれる。
美味しくて、美味しくて。私の顔は輝いていたは
ずだ。先生の顔も笑いで溢れていた。
或る日、いつも遅くとも帰って来る養母が一晩
帰らなかった。
暗闇の中、心細くて、灯りをつけると夏のせいで
割れた窓から虫が飛び込んでくる。
灯りをつけたまま冬布団から目だけを出すよう
にして夜を明かした。
明け方、彼女は帰ってきた。疲れは顔からも体
からもあふれていた。
幼い私にトツトツ話しだしたこと。
“昨日警察に捕まって一晩留置場にいれられた
”こと、“よりによって一番売上が多い日やった”と。
彼女は競馬か競輪の切符をもぐりで駅の階段下
で売っていたのだ、このことは前に聞いていた、
警察に見つかったらつかまると。
本当に嬉しくて私に初めてのおみやげも買ったと。
朝、警察官が云ったらしい“売り上げをみんな置い
といたら帰したる”と。
彼女の心のさすらいが見える気がした。目の前
のかつてない売り上げが露と消える口惜しさ、又、
どうして食べていけるのかの悲しさ、それ以上に
一人待つ私への憐憫、
答は出ている。残されたもの、一人待つ私への
初めてのおみやげ、それだけはさすがに警察官
も取り上げず“持って帰ってやれ”と。帰ってから
彼女の袋から出されたもの、
黄色い縦長の箱「森永ミルクキャラメル」。
70才を超えた今も箱を見ると切ない。
6才の私に喜びはなかった。彼女の切なさが
箱の中に詰まっていると思えた。
それでもやっぱりカナヅチを取り出して来て
キャラメルを割りだした、
20個の四角いキャラメルは倍以上の数になった。
程なく彼女は朝から出かけ夕方には帰れる仕事
に出会えた。
1か月に1度のお給料が出る普通のお仕事。
何の仕事かは知らないし、収入の少ないのも
なぜか解っている。
お給料日、彼女は決まって、じゃがいも、にん
じん、玉葱、その上お肉まで、チビッとやけど
買って帰って来る。
私の胸は、月に1度の大ご馳走に高鳴る。
時々行く山すそまでのお迎え、その日は絶対
に行く。 “お母ちゃん、重たいやろ、私が押し
たげるから頑張って”と彼女のお尻を押す。
ヨイッショ、ヨイッショと二人で登る山道の両側
に緑の木々が過ぎていく。その木々は小高い
山に連なりこの道はまるでその中心にすじを
引いた様につづく。
その時、その時間、オレンジ色の夕日が二人
の行く道を照らす様に、日の出の様に輝いていた。
幾度か経験した光景、それは私と養母を『娘と
母』としてつなぐ絆だったのか。その夕焼けの
せいで私は彼女に「母」と云う幻影を追い続け
たと思う。
※
理由は忘れたが足を骨折した、痛いのを憶え
ている。多分、右足首、包帯でグルグル巻か
れていた。杖をついて学校に通った。
程なくして、宮崎先生は山の麓まで送り迎え
して下さった。
すっかり治るまで。先生の腰にしっかり手を回
して、私には、何の憂いも無かったことを昨日
の様に思い出す。
宮崎先生は一人ぼっちの私に遣わされた
夢人では無かったかと今も心は熱くなる。
随分成長して養母に聞いたこと、
「お母さん、もうこれ以上この子を連れ回さない
でください、お母さんが落ち着いて暮らせる
まで預かりますから、絵の才能もいかせません」
と云われたと。
宮崎先生の実家はお寺でもちろん未だ独身。
それを聞いたとき、少し養母が恨めしかった。
私は未だ小学1年生、でも解ること、飢えず
に暮らせること、さすらわなくて良いこと。
彼女は云った、“お前が居なくても良い、でも
それ以上に一人が寂しかった”と。
宮崎先生との、夢人との絆は1年間、2年生に
なる春、又、ひとつの別れがあった。 …
……(続 く)