鈴木大拙という禅の研究者がいたことくらいは知っていた。ところが、どのような著作を著わし、どのような研究をしたのかを問われると、答えは多分にこころもとなくなる。だからというわけではない。鈴木大拙選集全13巻(春秋社)を買った。
序において、禅は行為である。生活である。日々の経験そのものである。日用光中の行往坐臥である。それで「平常心これ道」ともいい、「日々これ好日」ともいうと述べている。鈴木大拙は難解なのではないかという先入観があったが、意外に平明である。
選集第1巻「禅の思想」は、「今日の禅は中国で漢民族のあいだで成立したものゆえ、漢民族に特有の性格が織りこまれている。そしてそれは、インド民族的なものではない。」という解説から始まる。
次いで、一言でいうと、禅の思想は、無知の知、無念の念、無心の心、無意識の意識、無分別の分別、相非の相即、事事無碍、万法如々などという成語・成句であらわされる。禅の行為は、無垢用、無業の業、無用の用、無作の作、無求の求などと説明される。即ち、無知の知、無分別の分別をもって禅思想の根本であると続く。
序において、禅は行為である。生活である。日々の経験そのものである。日用光中の行往坐臥である。それで「平常心これ道」ともいい、「日々これ好日」ともいうと述べている。鈴木大拙は難解なのではないかという先入観があったが、意外に平明である。
選集第1巻「禅の思想」は、「今日の禅は中国で漢民族のあいだで成立したものゆえ、漢民族に特有の性格が織りこまれている。そしてそれは、インド民族的なものではない。」という解説から始まる。
次いで、一言でいうと、禅の思想は、無知の知、無念の念、無心の心、無意識の意識、無分別の分別、相非の相即、事事無碍、万法如々などという成語・成句であらわされる。禅の行為は、無垢用、無業の業、無用の用、無作の作、無求の求などと説明される。即ち、無知の知、無分別の分別をもって禅思想の根本であると続く。