「王陽明全集全10巻」の解読が進まない。絶えず現実と格闘した陽明だから得るものは大きいはずだ。「抜本塞源論」は理論としての緻密さや整合性を大いに欠いているように思われるが、ほとばしりでるような道徳観がわたしを魅了する。陽明に優等生的な回答を求めているわけではない。
陽明全集の第一巻「語録」は漢文の読み下し文だ。口語で読むような具合にはいかない。頭注をたよりに読み下し文と格闘をしている。「伝習録」は徐愛ら高弟による如是我聞(このようにわたしは聞いた)である。
高弟たちが腑に落ちないことを師匠(陽明)に問いただして、みんなに解りやすく説明しようというのだから「如是我聞もの」は本来解りやすいはずなのだ。
ところが、『良知は具体的な状況に対する応答として直観的に理を定立するとともに、理によって意志を規定し、実践を迫る情意的衝迫力である。知行合一とはこの謂いである。』【解説より】と結論をはしょられると、やさしい話がとたんに難しくなってくる。その昔、高校倫理の授業を受けた時と同様に解ったようで解らない。もっとも、解説書とか概論とかの文章にはこの類が多いことは既に承知だ。
専門家と呼ばれるひとが著述する場合には、自分の理解の度合いに応じて述べるのではなくて、読者の理解度に応じて述べるのが礼儀というものではあるまいか。一般に専門家には、この種の力量が不足しているように思われる。
やさしい話を解りにくくされたのじゃたまらない。こういう局面に再三出くわすと、疑り深いわたしなんぞ「ほんまかいな?なんだかこの解説も怪しいなあ。」ということになって結局、原著に挑まざるをえないのである。
陽明全集の第一巻「語録」は漢文の読み下し文だ。口語で読むような具合にはいかない。頭注をたよりに読み下し文と格闘をしている。「伝習録」は徐愛ら高弟による如是我聞(このようにわたしは聞いた)である。
高弟たちが腑に落ちないことを師匠(陽明)に問いただして、みんなに解りやすく説明しようというのだから「如是我聞もの」は本来解りやすいはずなのだ。
ところが、『良知は具体的な状況に対する応答として直観的に理を定立するとともに、理によって意志を規定し、実践を迫る情意的衝迫力である。知行合一とはこの謂いである。』【解説より】と結論をはしょられると、やさしい話がとたんに難しくなってくる。その昔、高校倫理の授業を受けた時と同様に解ったようで解らない。もっとも、解説書とか概論とかの文章にはこの類が多いことは既に承知だ。
専門家と呼ばれるひとが著述する場合には、自分の理解の度合いに応じて述べるのではなくて、読者の理解度に応じて述べるのが礼儀というものではあるまいか。一般に専門家には、この種の力量が不足しているように思われる。
やさしい話を解りにくくされたのじゃたまらない。こういう局面に再三出くわすと、疑り深いわたしなんぞ「ほんまかいな?なんだかこの解説も怪しいなあ。」ということになって結局、原著に挑まざるをえないのである。