「あの少女が…花音か」
驚いたのは孝哉だけではない。
スチュワートも孝彌も、そして静までもが孝之輔へと詰め寄った。
『どういうこと』
だと。
孝之輔が初めて花音を見たのは、孝彌が連れ帰ったあの日である。
事情を話す為に母屋にいた孝彌は、アトリエに花音を残していた。
「汚い格好した女の子がいたから、誰だって声をかけようとした。その時、庭を歩く孝哉がいた。花音は、否、その時はまだ知らない女の子だったけれど、急に窓に駆けよって“美味しいカステラのお兄ちゃんだ”って」
孝之輔は思わず、言葉を飲み込んだ。
そして暫く孝哉を目で追う花音を見ていた。
誰だと聞くことを忘れたわけじゃない。それよりも、あの孝哉を“お兄ちゃん”と呼ぶことに興味を持った。
孝哉は女に優しい奴じゃない。
まして子供に優しいなんて聞いたこともなかった。
「だから聞いてみた。どうして彼がカステラ…のお兄ちゃんなの!?って」
突然、声をかけられて花音はひどく驚いていた。
でも孝哉に逢えたことが余程嬉しかったんだろう。後からの無口な花音を思えば、よく話した。
母親が一週間くらい帰ってこないということがあった。近くの橋のたもとに行って、ずっと母親の帰りを待っていたらしい。
「橋の下にいたら、知らないお兄ちゃんがやって来たって。その時、何も食べてないのかってカステラをくれたんだって。その時のカステラが凄く美味しくて忘れられないってさ」
その話を聞きながら、静はこのふたりの運命を信じる気になった。
あのカステラは父からの用事で宮内省から渡されたものだった。
あの時孝哉は何も云わず、ただ失くしたとだけ。どんなに叱られ問い詰められても、一言の言い訳もしなかった。
「お兄ちゃんがいるなら此処でいいって。花音はそう云った。それからは皆の知る花音だ。僕は誰にもこの話をしなかった。小さな花音との約束だったから」
孝之輔は、肩の荷がおりたと云わんばかりにソファに深く座り込んだ。
孝哉も黙って聞いていた。
あの少女が花音だった。
気になって、あれからも幾度か橋まで行ってみた。
結局、二度と逢えなかった。
まさか一緒に暮らしていたとは、夢にも思わなかった。
「孝哉、どうして花音に声をかけた」
何時の間に帰っていたのか、父が立っていた。
「お父様…」
「あれは大切な皇室への届け物だった。何の説明もなく失くしただけでは探しようもなかった。それが判らない孝哉ではなかろう。声をかけた花音にそれを渡して、どうする心算だったのだ」
孝哉は父の顔を見る。
そこにいる全員が孝哉の言葉を待った。
「橋の下でうずくまっている花音は、泣いていました。橋の上から何を泣くんだと聞くと、自分が泣いてることに気付いていなくて。だから下りていきました」
孝哉はソファから立ち上がり、父の前で正座をした。
「あの時、衰弱している花音を見て何日も食べていないことはすぐに判りました。花音の瞳に不思議な色を見て、思わず包みを破っていました」
父は黙っていた。
「皇室には沢山の献上品があり食料だって余るほどある。でも目の前の花音には、俺の手の中にあるカステラしかないと思いました。西洋菓子は栄養もある。自分が死に掛けていることすら判らない花音を助けてやりたかった」
あの不思議な瞳の色は、西洋のものだったからだと漸く合点がいった。それと同時に、あの少女に心を奪われたのだとも気付いた。
相手は子供、孝哉も学生とはいえ充分子供だった。
しかし季節に巡りがあるように、ふたりは巡りあう運命だったのかもしれない。
もういい、と父は云う。
人嫌いと云われ人付き合いの下手な孝哉に、そこまでさせた花音は凄いと笑った。
「捜しにゆくのか」
「はい」
孝哉に迷いはなかった。
「朝倉公爵は東京にはいない。切符を手配した者の話では信州へ向かったのではないかということだ」
それを聞き、孝哉は改めて深々と頭を下げ、有難うと呟く。
問題は多いかもしれない。それでも気持ちは変わらなかった。
スチュワートは一先ず自分の父親の許で暮らし、孝哉の連絡を待つこととなった。
そして翌朝、家を出た孝哉の見た朝焼けは希望に満ちた色をしていた。
To be continued
※この物語はフィクションです。
登場する人物名・団体等は実在のものとは関係ありません。
驚いたのは孝哉だけではない。
スチュワートも孝彌も、そして静までもが孝之輔へと詰め寄った。
『どういうこと』
だと。
孝之輔が初めて花音を見たのは、孝彌が連れ帰ったあの日である。
事情を話す為に母屋にいた孝彌は、アトリエに花音を残していた。
「汚い格好した女の子がいたから、誰だって声をかけようとした。その時、庭を歩く孝哉がいた。花音は、否、その時はまだ知らない女の子だったけれど、急に窓に駆けよって“美味しいカステラのお兄ちゃんだ”って」
孝之輔は思わず、言葉を飲み込んだ。
そして暫く孝哉を目で追う花音を見ていた。
誰だと聞くことを忘れたわけじゃない。それよりも、あの孝哉を“お兄ちゃん”と呼ぶことに興味を持った。
孝哉は女に優しい奴じゃない。
まして子供に優しいなんて聞いたこともなかった。
「だから聞いてみた。どうして彼がカステラ…のお兄ちゃんなの!?って」
突然、声をかけられて花音はひどく驚いていた。
でも孝哉に逢えたことが余程嬉しかったんだろう。後からの無口な花音を思えば、よく話した。
母親が一週間くらい帰ってこないということがあった。近くの橋のたもとに行って、ずっと母親の帰りを待っていたらしい。
「橋の下にいたら、知らないお兄ちゃんがやって来たって。その時、何も食べてないのかってカステラをくれたんだって。その時のカステラが凄く美味しくて忘れられないってさ」
その話を聞きながら、静はこのふたりの運命を信じる気になった。
あのカステラは父からの用事で宮内省から渡されたものだった。
あの時孝哉は何も云わず、ただ失くしたとだけ。どんなに叱られ問い詰められても、一言の言い訳もしなかった。
「お兄ちゃんがいるなら此処でいいって。花音はそう云った。それからは皆の知る花音だ。僕は誰にもこの話をしなかった。小さな花音との約束だったから」
孝之輔は、肩の荷がおりたと云わんばかりにソファに深く座り込んだ。
孝哉も黙って聞いていた。
あの少女が花音だった。
気になって、あれからも幾度か橋まで行ってみた。
結局、二度と逢えなかった。
まさか一緒に暮らしていたとは、夢にも思わなかった。
「孝哉、どうして花音に声をかけた」
何時の間に帰っていたのか、父が立っていた。
「お父様…」
「あれは大切な皇室への届け物だった。何の説明もなく失くしただけでは探しようもなかった。それが判らない孝哉ではなかろう。声をかけた花音にそれを渡して、どうする心算だったのだ」
孝哉は父の顔を見る。
そこにいる全員が孝哉の言葉を待った。
「橋の下でうずくまっている花音は、泣いていました。橋の上から何を泣くんだと聞くと、自分が泣いてることに気付いていなくて。だから下りていきました」
孝哉はソファから立ち上がり、父の前で正座をした。
「あの時、衰弱している花音を見て何日も食べていないことはすぐに判りました。花音の瞳に不思議な色を見て、思わず包みを破っていました」
父は黙っていた。
「皇室には沢山の献上品があり食料だって余るほどある。でも目の前の花音には、俺の手の中にあるカステラしかないと思いました。西洋菓子は栄養もある。自分が死に掛けていることすら判らない花音を助けてやりたかった」
あの不思議な瞳の色は、西洋のものだったからだと漸く合点がいった。それと同時に、あの少女に心を奪われたのだとも気付いた。
相手は子供、孝哉も学生とはいえ充分子供だった。
しかし季節に巡りがあるように、ふたりは巡りあう運命だったのかもしれない。
もういい、と父は云う。
人嫌いと云われ人付き合いの下手な孝哉に、そこまでさせた花音は凄いと笑った。
「捜しにゆくのか」
「はい」
孝哉に迷いはなかった。
「朝倉公爵は東京にはいない。切符を手配した者の話では信州へ向かったのではないかということだ」
それを聞き、孝哉は改めて深々と頭を下げ、有難うと呟く。
問題は多いかもしれない。それでも気持ちは変わらなかった。
スチュワートは一先ず自分の父親の許で暮らし、孝哉の連絡を待つこととなった。
そして翌朝、家を出た孝哉の見た朝焼けは希望に満ちた色をしていた。
To be continued
※この物語はフィクションです。
登場する人物名・団体等は実在のものとは関係ありません。