ひとつ前の投稿から4年が経ちました。
これまで覗いて下さっていた方へ、ありがとうございました。
子供の頃、カラフルなキャンディーの入ったドロップ缶があって、
一粒大の穴からどの色が出てくるか、ちょっとたのしみに
カラカラと振っていました。
その缶みたいに、この時間の中にも
思いもよらなかったことや、
喜怒哀楽がたっぷり入りました。
今またこれを振ってみたくなったのは、
ずっと、せつなさを感じていたな。
と思ったのがきっかけでした。
手の届かないところにある叶わぬ思いを、
暗闇に閉じ込めておかないで、
抱きしめる必要がやっぱりあると思ったんです。
たとえば、
それでいいんだよと言ってほしい。
判断しないで、ありのままに寄り添ってほしい。
肯定をベースにして。
始まりは、そこからだから。と、あの子が言っていたこと。
もっと見ててほしかった。
求めてるカタチで受け取れなかったから、
愛はないと思ってた。
いや、感じてる部分もあったけど、本物か確信が持てなかった。
でも後になって、全てが終わってみたら、そこには与える人の
エゴや無知や都合が入り組んで、紛らわしくはあったけど、
存在への愛はちゃんとあった。
それが表現もされてたんだ。と、気づいたこと。
わたしたちはそれぞれの立場で、今自分の中にあるものを発していて、
相手の望んでるものに、思いが寄らない時もある。
というか、それがほとんど。
そこがズレるから、距離ができる。
そして、満たされない想いが積み重なって切なさになり、
胸の内にひっそりと、しまわれる。
はなから望んだものが(足り)なかったり、
相手のそれがわかっていても、応えられないこともある。
しかたのないその状況にだって、捉え方次第で幸福は見つかる。
今のじぶんには、「決定的にない」としか思えなくても、
その落胆を感じて、流して、また覗いてみれば。
そんなことを時々、夕焼け空の下にピクニックシートを広げて、
うっすら浮かんでくる星を見つけるように
話せたらいいなぁと思うのです。
あの時は絶望したけど、それをとことん受け止めたら、
後にお土産が見つかったり、いい展開もあったなぁ。
ってこと、ありませんか。