YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

スチュワーデスとデート~テヘランの旅

2022-01-12 10:51:11 | 「YOSHIの果てしない旅」 第9章 イラン・パキスタンの旅
     △スチュワーデスのMさんと私―テヘラン市内にて

・昭和44年1月18日(土)晴れ(スチュワーデスとデート)
 昨夜宿泊したアミルカビルホテルは、テヘラン中心部からそれ程遠くなく、又日本大使館やインド大使館、或はバザールへ歩いて行ける距離であった。昨夜は寝てからもエールフランスのスチュワーデスのMさんの事が気になって仕方がなかった。今日、彼女は休みでテヘランに滞在との事、そしてエールフランスの乗務員が宿泊するホテルは決まっているとの事であった。この2点は昨夜、彼女の話から分っていた。『彼女ともう一度、会って話がしたい』そう言う一途な想いが、私をエールフランス営業所へ行かせた。
 最近雪が降ったのか所々、日陰に残雪があった。私は市内マップを頼りに、その営業所へ行った。
「昨夜、テルアビブからテヘランに着いた○○便のスチュワーデスが滞在しているホテルの電話番号を教えて下さい」と尋ねた。何の疑いもせず、女性スタッフは親切にそのホテルの電話番号を教えてくれた。    
 その足でインドの査証を取る為、インド大使館へ行った。査証を申請した後、彼女が宿泊しているホテルへ電話して、彼女の部屋へ転送して貰った。 
「もしもし、昨日エールフランスに搭乗したYoshiです。もう一度、貴女と話がしたいので電話しました。今日、暇でしょうか」と私。
「あ、Yoshiさん。昨夜はどうも。今日、私は暇ですからお会いしてもいいわよ。」と彼女の快い応答であった。
 「それでは日本大使館の前で午後2時に会いましょう。ゆっくり昼食を取ってから来て下さい。私も昼食を取った後、大使館で新聞でも読んで時間を待ちますので。」と言って電話を切った。
電話代は2リアル(約10円)であった。嬉しくて堪らなかった。『友達になれるかな。もっと発展して私の彼女になってくれたら、もっと嬉しいのだが。』と願望は広がった。 
 市内散策がてら、私はインド大使館から日本大使館へ向かった。途中、安そうな食堂があったので昼食を取る為、その店に入った。薄汚れた非衛生な感じの店であったが、安く上げるのにあえて選んだ。店に入ったが、何を注文して良いのか分らなかった。仕方なく店頭に並べてあるシシカバブ(羊の肉の串焼き)5本、彼等の主食であるナン(小麦粉を練って、薄く焼いたイラン人の主食物)2枚、それにコカコーラを注文し、全部で12リアル(57円)支払った。串焼きは羊のレバーでほんの薄塩味であった。焼き立てであれば多少旨いのであろうが、冷たくなっていて「不味い」の1語に尽きた。我慢して2本食べたが、後は食べられなかった。それに作ってから時間が経ったナンは、パサパサしていて何の味もなかった。これらをコーラで胃の中へ流し込んだ。満腹感は全く無かった。
 日本大使館へ向かって歩いていたら、八百屋で林檎を見付けた。日本を出て以来、食べた事が無かったので、幾らするのか聞いてみた。「30リアル(144円)」と言うのでビックリ、買うのを諦めた。如何考えても高い感じがした。それとも外人の私に値段を吹っ掛けたのか。
 午後1時前に大使館に着いてしまった。彼女に会えると思うと、落ち着いて新聞も読めなかった。それに又、感じの悪い日本人大使館員に会ってしまって余計であった。約束の2時前から大使館の前で彼女が来るのを待っていた。2時10分頃、タクシーが停まり、中から白い毛糸の帽子を被り、グレーのロングコートを着てヒールを履いたMさんが下りて来た。制服姿が似合う美人の彼女であるが、又私服を着たそのセンスの良さは、さすがエールフランスのスチュワーデスであった。でも下りて来たのは彼女だけでなく、もう1人女性が下りて来た。
「こんにちは、Yoshiさん。待ちましたか。」と彼女。
「いいえ、そんなに待ちませんでした。」と私。
 「Yoshiさん、こちらの方は私と同じ会社のスチュワーデスのTさんです。」と彼女。紹介されたTさんも、Mさんと同じく美人で、着ている服もよく似合っていた。Mさん1人が来るとばかり思っていた私なので、Tさんを紹介されて貰ったが、残念な気持があった。『両手に花』でそれはそれで良いかも知れないが、1人の女性さえどの様に対応して良いやら分らない私であるので、2人では嬉しくなかった。
「何処へ行きましょうか。私達は昼食をまだ済ませてないので、もし宜しければレストランへ行きませんか。」とMさん。
 「私は済ませて来ました。貴女達がまだなので、レストランへ行きましょう。」と私。そう言う事で我々3人はレストランへ行く事になった。
 私は5~6ヵ月間も髭を剃らず、髪の毛もカットせず伸び放題にカーキ色のジャンパーを着て、紺のジーパンをはいていた。その格好はまるでヒッピーの様であった。彼女達と全く不釣合いな格好している私が、両手に花で美人2人を左右に従えながら歩いている光景は、通りを歩くイラン人の注目の的になってしまった。如何して注目なのかと言と、この国や他のイスラム諸国の女性は自分の顔・髪や体のラインを夫以外の男性に見せないよう、〝全身を覆ってしまう様な布製の被り物〟(「チャドル」、パキスタンでは「ブルカ」と言う。)を頭からすっぽり被っていた。そして中には眼も隠す為に黒の網目で覆っている女性も多かった。従ってこちらの男性は若い女性の素顔を見る機会が無いのです。ましてやヨーロッパで流行しているミニスカートの女性は、皆無であった。そんな理由で彼女達の(美しい)素顔とスタイルが余計に目立ったのでした。                  
 我々が入った店はヨーロッパスタイルの高級レストラン(それでも今一であった)の様で、メニューの方も高そうであった。テヘランは彼女達の乗務空路の中継地となっているし、それに前にも来た事があるのか、Mさんはスンナリこの店に私を案内したのだ。
「Yoshiさん、私が払いますから好きな物を注文して下さい。」と彼女は言ってくれた。本来ならばデートに誘った私が払うのが筋であろうが、懐具合が寂しいのでその言葉に甘んじた。しかしだからと言ってこれ幸いに高い物を注文する私ではなく、既に食事して来たからと言って、安そうな料理を一品だけ注文した。 
 我々がレストランに入ったら、10~15人位の日本人観光客の一団が席2つ隔て食事をしていた。彼等は美女2人と私の組み合わせが不思議そうに、興味津々と目線を我々に向けていた。     
「私達とYoshiさんの組み合わせが珍しいのか、あの団体じっとこちらを見ているわよ。」とMさんも気が付いて呟いた。その団体は若者中心の団体で、中に数人女性も居たが、やはりMさんやTさんの方が、その彼女達より全ての点(顔立ち、スタイル、着ている洋服及びセンス)で数段上であった。そんな訳で、私を羨望の目で見られているのも満更悪い気はしなかった。
 我々は私の旅の話、キブツの話等を、又彼女達からスチュワーデスの話等をして楽しい一時を過ごした。
「Mさん、日本へ帰ったら又、会って貰えますか。宜しければ貴女の日本の住所を教えて下さい。」と私は言った。
 「ご免なさい。婚約者もいるし、私との出逢いは今日一日だけよ。」と彼女にぴしゃりと言われてしまった。柔らかな口調であったが、確固たる説得力のある言葉で、私の想い(友達、否、それ以上の関係を願っていたのだが・・・)は一瞬で消えてしまった。                                                                             
 レストランを出た後、彼女達は何か買いたい物があるらしく、「バザールへ行きたい」と言うので、そこへ行った。バザールはレストランからそれ程遠くなかった。レンガ造りの古びた門を潜るとテヘラン市内と違った空間がそこにあった。かなり奥まで真っ直ぐに伸びたメイン通りには、数え切れない程のたくさんの店が連なっていた。更にその通りから数多くの小路(枝路)に分かれ、その小路の両側にも店が並び、1つの別な街(数千・数万軒の店がある様に見えた)がそこに形成されていた。このバザールには、多種多様な物が売っていた。ここは知る人ぞ知る、『バザールとして有名で世界最大の規模』と言われていた。
  Mさんはペルシャ絨毯を、Tさんはアフガンコートを求めていた。彼女等はあちこちと店選び、そして品質が良く、安い品物を探し求めていた。私はただ彼女達の後に付いて行くだけであった。ただ危ない感じがする小路には、行かない様に注意していた。彼女達は英語が上手だし、外国での買物が慣れている所為か、イラン商人との値段の交渉も上手なもので、ついに絨毯とコートを買った。アフガンコートやペルシャ絨毯は、決して安い買物ではない。否、値切ったがやはり高額の買物であると思った。しかしスチュワーデスは高給取りなのか、ポンと支払ったのであった。いずれにしてもバザールは、日本人女性2人だけで来る様な雰囲気、場所ではなく、たまたま私が一緒で彼女達にとって正解だったのだ。
思うに、彼女達の本命は私と会って食事や会話を楽しむと言うのではなく、私に買物時のボディガード的な役割をして貰いたかった。ただそれだけであったのだ。そんな訳か、彼女達の買物が終りバザールを出たら用済みになったのか、Mさんは「それではYoshiさん、ここでお別れしましょう。元気で旅をして下さい。さようなら。」と言って私の前から去って行った。
よく考えて見なくとも、何処の者か分らない貧乏旅行者にスチュワーデスが惚れるものか。この2日間、たわいもない片想いであったのだ。それでもエールフランスの美人スチュワーデス2人とのデートは、忘れ難いイランの旅の思い出となった。
 彼女達と別れ、日の落ちかけた薄暮の空、何処(いずこ)からともなくスピーカーからイスラム教のお祈りを呼び掛ける声が響き渡ってきた。それは歌い上げる様な高らかに響く声であり、或は詩の朗読を聞いている様でもあった。『あぁ・・、私はイスラムの国に来ているのだ。』と再度、実感した。 
 夕方、ホテルに戻った。そこの談話室に私と同じ欧米の旅人15人程が寛いでいた。ある事を思い出した私は、皆に聞こえる程の大声で、「私はこれからインドに向けて旅をしようと思っています。誰か私と一緒に旅する方いませんか。」と言って、私と共に旅する仲間を募った。これは何回か誰かに、「イスラム圏からインドまでは1人で旅をするのでなく、誰かと共に旅をした方が安全・安心だ。」とアドバイスを受けていたからであった。
すると2人が私に近寄って来て、「一緒に行きましょうと。」と言う事になった。我々は互いに自己紹介して、直ぐに親しくなった。1人はアメリカ人のロン(Ronald Schwartz)と言って ニューヨーク出身、自称小学校の先生で、そしてもう1人はフランス人のジェーン(Jean Louis)と言う旅人であった。 
「Yoshi、どんなルートでインドへ行く予定ですか。」とロンが私に尋ねた。
「予定ルートは、テヘラン~Mashhad(マシュハド)~Heart(へラート)~Kandahar(カンダハール)~Kabul(カブール)~Peshawar(ペシャーワル)~Lahore(ラホール)を経由して、インドNew Delhi(ニューデリー)へ行こうと思っているのです。」と私。
「この時季にそのルートは行けないかもしれません。と言うのは、Afghanistan(アフガニスタン)は 9,000フィートの山岳地帯だ。積雪の為、バスの通行不能があるかもしれません。もし通行可能であっても、バスが積雪や凍結でスリップし、谷底へ落ちたらそれこそ大変、非常に危険だ。」とロン。
「それでは南回りで行くのですか。」と私。
「そうです。Kerman(ケルマーン)~Zahedan(ザーヘダーン)~Quetta(クエッタ)~ラホール、そしてニューデリーへの南回りの方が良いでしょう。」とロン。
「分りました。それでは南回りで行きましょう。」と言う事でジェーンも納得し、3人の意思は決定した。           
それにしても私はアフガニスタンの冬季山岳地帯の危険予知能力は全く無く、そしてそれらの情報に無知であった。しかし大声を上げて仲間を募った事は本当に良かった。1人では心細いし、『とにかくイスラム圏の一人旅は危険、不都合。』と言う事なので、仲間が見付かって良かったし、こんなに早く見付かるとは思ってもいなかった。考えてみれば大勢の外人を対象に彼等を前にして英語で大声を出し、旅の仲間を募るなんて、私も随分勇気があるものだ、と自分自身感心した。
  その後、私、ロンそしてジェーンの3人で安そうな食堂へ夕食を食べに行った。彼等も経済的な旅を願っているので、その点でも良き旅の仲間が見付かって安心した。