・昭和44年1月27日(月)晴れ(せこい旅仲間と客の奪い合いの駅弁屋)
我々6人は朝寝坊をして、ゆっくりと食事を取り、それからレストラン(ドミトリー併設)を出た。
我々6人は朝寝坊をして、ゆっくりと食事を取り、それからレストラン(ドミトリー併設)を出た。
「よしなさい」と私は言ったのに店を出る際、ロンとジェーンはレストランのテーブルの上に置いてあったオリエンタル風の金属製灰皿等を、ポケットにしまい込んでしまった。
その店の主人は無くなった事に気が付いたのか、直ぐに大声を発しながら我々を追って来た。彼は我々に捲くし立てた。2人は渋々盗った物を返した。
共に旅をしている仲間がこんな事をするなんて恥ずかしく、嫌な感じがした。後で分ったのだが、私と違ってロンは貧乏旅行者でなかった。ニューデリーへ行った時、彼はアメリカから送金されて来た2,000ドルを受け取っていた。私にとっては羨ましい限りであった。
それにしてもロンとジェーンは、なんと手が早い事か。2人は店の物を失敬する事に、全く罪悪感が無い様であった。そもそも我々6人は友達でもなければ、気が合って一緒に旅をしている訳でもなかった。竹谷以外、テヘランで私が呼び掛け、集まったグループなのだ。『単独でイスラム諸国を旅するのは不安、危ない』、そして『行く方向が同じ』、ただそれだけの事であったのだ。そんな事で彼等が何をしようと、私には関係ないと言えばそれまでの事であった。
その後、我々は16時30分発カラチ経由ラホール行き列車(3等客車、4人掛け木製座席)に乗り込んだ。混雑して席が取れなかったと言う状態ではなかった。周りの乗客は全て男性パキスタン人、何か違和感があった。当然我々は彼等の注目の的になったが、特に問題も無く乗車する出来た。しかし木製座席、しかも横になれないので夜間一泊過すのは、辛い旅であった。
食事は途中駅に停車した際、駅弁を列車の窓越しで買った。日本の様に鉄道弘済会が、責任を持って売っているのでなく、近所の人達がホーム越しに大勢遣って来て一定の秩序、決まりも無く、自分勝手に家で作った駅弁を売っていた。
それにしてもロンとジェーンは、なんと手が早い事か。2人は店の物を失敬する事に、全く罪悪感が無い様であった。そもそも我々6人は友達でもなければ、気が合って一緒に旅をしている訳でもなかった。竹谷以外、テヘランで私が呼び掛け、集まったグループなのだ。『単独でイスラム諸国を旅するのは不安、危ない』、そして『行く方向が同じ』、ただそれだけの事であったのだ。そんな事で彼等が何をしようと、私には関係ないと言えばそれまでの事であった。
その後、我々は16時30分発カラチ経由ラホール行き列車(3等客車、4人掛け木製座席)に乗り込んだ。混雑して席が取れなかったと言う状態ではなかった。周りの乗客は全て男性パキスタン人、何か違和感があった。当然我々は彼等の注目の的になったが、特に問題も無く乗車する出来た。しかし木製座席、しかも横になれないので夜間一泊過すのは、辛い旅であった。
食事は途中駅に停車した際、駅弁を列車の窓越しで買った。日本の様に鉄道弘済会が、責任を持って売っているのでなく、近所の人達がホーム越しに大勢遣って来て一定の秩序、決まりも無く、自分勝手に家で作った駅弁を売っていた。
そんな訳で食中毒になった場合、その責任は誰が取るのであろうか。そんな心配しながら、「駅弁を下さい」と窓越しに言ったら、6~7人の販売人が集まって来て、彼等販売人同士が客の私の取り合い、奪い合いが始まり、凄まじい光景であった。買う方の私がビックリし、面食らってしまった。彼等の売っている駅弁はやはりナン、それを巻いて、或いは付けて食べる副食物(香辛料の強いカレー)、そしてチャイであった。