△チャドルを纏った女性達(CFN)
・昭和44(1969)年1月21日(火)晴れ(廃墟になったキャラバン・サライ)
シルクロード(絹の道)は、有史以前からアジアとヨーロッパを結んでいる東西交易路の総称であり、幾筋もの道から成り立っていると学校で教わり、又その様に認識していた。ある時代にどの道が栄えたかは、その時代の勢力の隆替(りゅうたい)によって目まぐるしく変貌したようだ。日本にシルクロードの事が伝わったのは、マルコポーロの東方見聞録による。彼は1271年のまだ17歳の時にヴェネチアを出発し、25年間かけての大旅行をして西安の都に辿り着いたそうだ。
そしていよいよ私のシルク・ロード、砂漠の旅が始まった。7時30分に起き、部屋を出ようとしたらドアの前に財布が落ちていた。拾い上げ中を見るとイラン紙幣やドル紙幣がかなりの額(紙幣が厚かった)が入っていた。部屋の中で私のではないので、南アフリカ人(白人)の物か。彼はまだ寝ていたので起こして確認させた。
「これは貴方の財布ですか。」
「そうです。どうして君が持っているのか。」
「ドアの前に落ちていたよ。どうぞ」
「それは有り難う、本当に有り難う。」
「私は旅発ちます。さようなら。」
「有り難う、マイ・フレンド。グッドラック。」
私は部屋を出た。彼にとって正直な私で大変幸運であったのだ。
私、ロン、ジェーン、そしてジェーンの知り合いの同じフランス人の男女が加わり、5人で旅をする事になった。その男女は昨日から我々の仲間に加わる事になっていた。彼はおとなしく美男子タイプでMichelle(ミシェル)と言い、彼女の方は美女タイプでCatherine(カトリーヌ)と言って、二人は似合いのカップルであった。ミシェルはカトリーヌを如何してこんな砂漠の旅に連れ回すのか、彼女も良く付いて来たな、と私は思った。2人は全く英語が話せず、私は二人と余り話をする機会がなかった。
我々5人はザーヘダーンまでのバスの切符、パキスタンの通行許可書そしてインドの査証の取得は済んでいた。しかし我々はザーヘダーンから先、そして両国国境付近の道路・交通アクセスについて全く分らず、行ってからの勝負(判断)であった。
バスは予定時刻を1時間遅れ、テヘランのバスターミナルを発車した。このバス(S.Auto.AB.Kerman)は40席位あって、乗客は半分の20人程であった。左側の席は男性が座り、右側の席は女性が自然と別れて座った。しかしカトリーヌはイランの習慣(イスラムの習慣)に従わず、左側のミシェルと共に座った。右側の女性8人は皆、チャドルを着ていたので、素顔は分らなかった。若い女性は居ない様な感じであった。走行距離が長い為か、運転手2名が乗務した。
バスが郊外に出ると直ぐに、草木も生えていない荒涼たる原野、或いは半砂漠状態(この辺りは岩と砂礫の世界)であった。しかもこんな状態が延々と続いた。道路はイランに来た時の空港~テヘラン間の様に良く整備されていなかった。所によっては凸凹、未舗装(砂利道)、或は砂漠の砂が道路を覆い隠し、轍(わだち)を頼りに通行しなければならない様な箇所が幾つもあった。しかしイラン全土が標高1,000m以上と言われるが、起伏がなく殆どの道は平坦であった。
何処かの町でお昼になった。我々も食堂へ入って行った。しかし食べる所は男女別々になっていた。当然、女性達が食べている所は、見えない様に囲いで仕切られていた。『肌を男性に見せない』と言うイスラム教の教えが社会生活において不便さをきたしている様に見受けられたが、イスラムの人々にとって全く不便・不都合と感じていないのであろう。要するに食べる所が、銭湯の様に男女が区別されていた。カトリーヌは当然、女性専用の食堂の方へ行かなければならないのだが、ミシェルと別れて食べたくないのか、男性専用の方で一緒に食べた。
私は思いを巡らせた・・・。日本の銭湯の場合、男性が女湯の方へ入っていったら当然大騒ぎになり、警察沙汰になる。でも逆に、女性(年齢関係なく)が男湯へ入って来たらどうなるのであろうか。男性は大騒ぎや警察沙汰にするであろうか。実際にそんな体験が無いので想像であるが、男性の場合は女性が入って来ても騒がず(内心喜んで?)、無視するであろう。男性は駄目で、女性であったら許される?から不思議だ。それと同じで、イランの食堂も男性の方で女性が食べるのは、『かまわない』と言う事か。それともカトリーヌが外人で、ムスリムでないからであろうか。
それから又、バスの旅は続いた。外の状況は半砂漠(砂礫)から砂漠へと変わり、それが延々と続いた。車窓から外を眺めていると、時たま今にも崩れ落ちそうな、或いは、砂の中に埋まって行きそうな、そんな廃墟になった家々が見られた。それらの家は、長屋の様に細長くなっていて、〝キャラバン・サライ〟(隊商宿)の廃墟であった。過っては多くのラクダと共にキャラバンの喧騒で賑わっていたサライ。そこは隊商達にとって、『オアシス』でもあったのだ。絹や陶磁器を西方へ、そしてイランの絨毯や珍宝を東方に運ぶ為、何十頭何百頭のラクダが首に鈴を付け、チリン・チリンと鳴らしながら、のんびりとシルクロードを歩むキャラバン隊は、今や夢物語になってしまったのか。インド航路が発見され大航海時代に入ってから、シルクロードはすっかり衰退してしまったのだ。更に自動車の発達で、キャラバンサライは砂漠のオアシスである宿、或は中継地としての機能を失い、見捨てられ、そして砂の中へ埋もれて行く運命を辿っていたのだ。
夕方の拝礼時間になったのであろうか、砂漠の中に家がたったの3~4軒、本当に辺鄙な所でバスは停まった。乗客のムスリムの人達は車道の端から少し砂漠の中に立ち入り、地平線に沈む太陽に向かってお祈りを始めた。彼等が拝むその方角はメッカの方向であり、砂漠での彼等の祈りと太陽が砂漠の地平線に沈む情景は、真に絵になる光景であった。
私は彼等がお祈りしている間、砂漠の民の暮らしを垣間見ようと、その1軒の家(物置小屋の様な、泥を天火で干して作り上げた様な家)に立ち入らせてもらった。しかし家の中は、何にも無かった。ただあるのは2・3個の鍋だけだった。余りにも惨めな、まるで古代人の暮らしの様で、私は愕然とし、そして悲しくなった。
シルクロード(絹の道)は、有史以前からアジアとヨーロッパを結んでいる東西交易路の総称であり、幾筋もの道から成り立っていると学校で教わり、又その様に認識していた。ある時代にどの道が栄えたかは、その時代の勢力の隆替(りゅうたい)によって目まぐるしく変貌したようだ。日本にシルクロードの事が伝わったのは、マルコポーロの東方見聞録による。彼は1271年のまだ17歳の時にヴェネチアを出発し、25年間かけての大旅行をして西安の都に辿り着いたそうだ。
そしていよいよ私のシルク・ロード、砂漠の旅が始まった。7時30分に起き、部屋を出ようとしたらドアの前に財布が落ちていた。拾い上げ中を見るとイラン紙幣やドル紙幣がかなりの額(紙幣が厚かった)が入っていた。部屋の中で私のではないので、南アフリカ人(白人)の物か。彼はまだ寝ていたので起こして確認させた。
「これは貴方の財布ですか。」
「そうです。どうして君が持っているのか。」
「ドアの前に落ちていたよ。どうぞ」
「それは有り難う、本当に有り難う。」
「私は旅発ちます。さようなら。」
「有り難う、マイ・フレンド。グッドラック。」
私は部屋を出た。彼にとって正直な私で大変幸運であったのだ。
私、ロン、ジェーン、そしてジェーンの知り合いの同じフランス人の男女が加わり、5人で旅をする事になった。その男女は昨日から我々の仲間に加わる事になっていた。彼はおとなしく美男子タイプでMichelle(ミシェル)と言い、彼女の方は美女タイプでCatherine(カトリーヌ)と言って、二人は似合いのカップルであった。ミシェルはカトリーヌを如何してこんな砂漠の旅に連れ回すのか、彼女も良く付いて来たな、と私は思った。2人は全く英語が話せず、私は二人と余り話をする機会がなかった。
我々5人はザーヘダーンまでのバスの切符、パキスタンの通行許可書そしてインドの査証の取得は済んでいた。しかし我々はザーヘダーンから先、そして両国国境付近の道路・交通アクセスについて全く分らず、行ってからの勝負(判断)であった。
バスは予定時刻を1時間遅れ、テヘランのバスターミナルを発車した。このバス(S.Auto.AB.Kerman)は40席位あって、乗客は半分の20人程であった。左側の席は男性が座り、右側の席は女性が自然と別れて座った。しかしカトリーヌはイランの習慣(イスラムの習慣)に従わず、左側のミシェルと共に座った。右側の女性8人は皆、チャドルを着ていたので、素顔は分らなかった。若い女性は居ない様な感じであった。走行距離が長い為か、運転手2名が乗務した。
バスが郊外に出ると直ぐに、草木も生えていない荒涼たる原野、或いは半砂漠状態(この辺りは岩と砂礫の世界)であった。しかもこんな状態が延々と続いた。道路はイランに来た時の空港~テヘラン間の様に良く整備されていなかった。所によっては凸凹、未舗装(砂利道)、或は砂漠の砂が道路を覆い隠し、轍(わだち)を頼りに通行しなければならない様な箇所が幾つもあった。しかしイラン全土が標高1,000m以上と言われるが、起伏がなく殆どの道は平坦であった。
何処かの町でお昼になった。我々も食堂へ入って行った。しかし食べる所は男女別々になっていた。当然、女性達が食べている所は、見えない様に囲いで仕切られていた。『肌を男性に見せない』と言うイスラム教の教えが社会生活において不便さをきたしている様に見受けられたが、イスラムの人々にとって全く不便・不都合と感じていないのであろう。要するに食べる所が、銭湯の様に男女が区別されていた。カトリーヌは当然、女性専用の食堂の方へ行かなければならないのだが、ミシェルと別れて食べたくないのか、男性専用の方で一緒に食べた。
私は思いを巡らせた・・・。日本の銭湯の場合、男性が女湯の方へ入っていったら当然大騒ぎになり、警察沙汰になる。でも逆に、女性(年齢関係なく)が男湯へ入って来たらどうなるのであろうか。男性は大騒ぎや警察沙汰にするであろうか。実際にそんな体験が無いので想像であるが、男性の場合は女性が入って来ても騒がず(内心喜んで?)、無視するであろう。男性は駄目で、女性であったら許される?から不思議だ。それと同じで、イランの食堂も男性の方で女性が食べるのは、『かまわない』と言う事か。それともカトリーヌが外人で、ムスリムでないからであろうか。
それから又、バスの旅は続いた。外の状況は半砂漠(砂礫)から砂漠へと変わり、それが延々と続いた。車窓から外を眺めていると、時たま今にも崩れ落ちそうな、或いは、砂の中に埋まって行きそうな、そんな廃墟になった家々が見られた。それらの家は、長屋の様に細長くなっていて、〝キャラバン・サライ〟(隊商宿)の廃墟であった。過っては多くのラクダと共にキャラバンの喧騒で賑わっていたサライ。そこは隊商達にとって、『オアシス』でもあったのだ。絹や陶磁器を西方へ、そしてイランの絨毯や珍宝を東方に運ぶ為、何十頭何百頭のラクダが首に鈴を付け、チリン・チリンと鳴らしながら、のんびりとシルクロードを歩むキャラバン隊は、今や夢物語になってしまったのか。インド航路が発見され大航海時代に入ってから、シルクロードはすっかり衰退してしまったのだ。更に自動車の発達で、キャラバンサライは砂漠のオアシスである宿、或は中継地としての機能を失い、見捨てられ、そして砂の中へ埋もれて行く運命を辿っていたのだ。
夕方の拝礼時間になったのであろうか、砂漠の中に家がたったの3~4軒、本当に辺鄙な所でバスは停まった。乗客のムスリムの人達は車道の端から少し砂漠の中に立ち入り、地平線に沈む太陽に向かってお祈りを始めた。彼等が拝むその方角はメッカの方向であり、砂漠での彼等の祈りと太陽が砂漠の地平線に沈む情景は、真に絵になる光景であった。
私は彼等がお祈りしている間、砂漠の民の暮らしを垣間見ようと、その1軒の家(物置小屋の様な、泥を天火で干して作り上げた様な家)に立ち入らせてもらった。しかし家の中は、何にも無かった。ただあるのは2・3個の鍋だけだった。余りにも惨めな、まるで古代人の暮らしの様で、私は愕然とし、そして悲しくなった。
又、砂漠の旅は続いた。右側に座っているその覆面の女性達(私は不気味さを感じていた)は、互いに一言も言葉を発せず、ただ黙って座っていた。左側に座っている男性も同じであった。何十時間も同じバスに乗っているにもかかわらず我々とは勿論、他のイラン人同士でも会話が全く無かった。長い道中なので、『袖擦り合うも多少の縁』、或は、『旅は道ずれ世は情け』と言う事で、もっと気楽にお喋りをしながら旅を楽しんだ方が良いのではと思った。しかし、そんな会話・お喋りは全く無く、無言でじっと坐っているだけであった。
私と私の後ろに座っていたロンは出発間もない頃、こんな話をしていた。
「ロン、イランの現状は酷いものだな。イラン人、そして政府は何をすべきか。」と私。
「道路の整備を良くする事です。勿論、国内のみならず、隣国と協力し国際道路の建設、所謂シルクロードの復活が大事だと思うが。」とロン。
「私もその通りだと思う。そして国内の物流を活発化させる、と当時に東西の経済・文化の交流を活発化させることですね。」と私。
「そうです。その基礎となり得るのが教育です。テヘランの街でさえ学校へ行ってない多くの子供達を見掛けました。」とロン。
「私も見掛けました。そして1人1人がイランの現状と世界の現状を知り、自分達が何をしなければならないのか、それを知る必要がありますね。」と私。
「そうです。イラン国民が外国を知り、自国の現状を知る。これではいけないのだと理解すれば、もっと自分や国の為に頑張れるはずだ。」とロン。
「そうですね。そして貧富の格差の是正、農業の改善、近代化と産業の充実を図り雇用の安定を確保する。」と私。
「ヤー。これらの諸策によって貧困がなくなれば、イラン人の金銭的な嘘はなくなるでしょう。」とロン。
「ハイ、私もそう思います。そしてイランは石油が豊富に取れるし、パーレビ国王の近代化政策も期待しましょう。」と私。
しかし、こんな会話も虚しいのだ。現実にシルクロード南ルートの東南アジアは、政情不安定な国が多く、特にベトナムではベトナム戦争が起こっている。中共とインド、そしてインドとパキスタンの国境では時々紛争が起こっている。しかも中共を含め中央アジアは共産圏国家だ。現状では新シルクロードの建設なんて、到底夢物語に過ぎないのであった。
何にも無い、何の変化も無い、ただ延々と続く砂漠の中を何時間も何時間もバスに乗っている内に、我々も無口になって来たのも当然であった。と言うのは、この様な厳しい現実の中で、会話そのものが虚しくなって来るからであった。食事は昼時の一回だけで腹が減り、喉が渇き、そしてバスに乗り疲れて来ては、ただじっと我慢するだけであった。バスは延々と尽きる事が無い砂漠の中、夜を徹して走った。ケルマーンに着いたのは翌日の朝、5時頃であった。
テヘラン~ケルマーン間(約1,200km?)を20時間(休憩は昼食の時、そして5時頃のお祈りの時間の時だけ。そして夕食は無しであった。)、平均時速50~55km?。そんなに早く走っている感じがしなかったのに、意外と速いスピードで走っていた。
私と私の後ろに座っていたロンは出発間もない頃、こんな話をしていた。
「ロン、イランの現状は酷いものだな。イラン人、そして政府は何をすべきか。」と私。
「道路の整備を良くする事です。勿論、国内のみならず、隣国と協力し国際道路の建設、所謂シルクロードの復活が大事だと思うが。」とロン。
「私もその通りだと思う。そして国内の物流を活発化させる、と当時に東西の経済・文化の交流を活発化させることですね。」と私。
「そうです。その基礎となり得るのが教育です。テヘランの街でさえ学校へ行ってない多くの子供達を見掛けました。」とロン。
「私も見掛けました。そして1人1人がイランの現状と世界の現状を知り、自分達が何をしなければならないのか、それを知る必要がありますね。」と私。
「そうです。イラン国民が外国を知り、自国の現状を知る。これではいけないのだと理解すれば、もっと自分や国の為に頑張れるはずだ。」とロン。
「そうですね。そして貧富の格差の是正、農業の改善、近代化と産業の充実を図り雇用の安定を確保する。」と私。
「ヤー。これらの諸策によって貧困がなくなれば、イラン人の金銭的な嘘はなくなるでしょう。」とロン。
「ハイ、私もそう思います。そしてイランは石油が豊富に取れるし、パーレビ国王の近代化政策も期待しましょう。」と私。
しかし、こんな会話も虚しいのだ。現実にシルクロード南ルートの東南アジアは、政情不安定な国が多く、特にベトナムではベトナム戦争が起こっている。中共とインド、そしてインドとパキスタンの国境では時々紛争が起こっている。しかも中共を含め中央アジアは共産圏国家だ。現状では新シルクロードの建設なんて、到底夢物語に過ぎないのであった。
何にも無い、何の変化も無い、ただ延々と続く砂漠の中を何時間も何時間もバスに乗っている内に、我々も無口になって来たのも当然であった。と言うのは、この様な厳しい現実の中で、会話そのものが虚しくなって来るからであった。食事は昼時の一回だけで腹が減り、喉が渇き、そしてバスに乗り疲れて来ては、ただじっと我慢するだけであった。バスは延々と尽きる事が無い砂漠の中、夜を徹して走った。ケルマーンに着いたのは翌日の朝、5時頃であった。
テヘラン~ケルマーン間(約1,200km?)を20時間(休憩は昼食の時、そして5時頃のお祈りの時間の時だけ。そして夕食は無しであった。)、平均時速50~55km?。そんなに早く走っている感じがしなかったのに、意外と速いスピードで走っていた。