2013.6.25
いつのころからか感じていたことがある。
八王子は夕焼けの里と呼ばれる。
詩人 中村雨紅が生地八王子駅に降り立ったときその夕焼けのあまりの美しさにこれを作詩したと聞いた。
八王子市恩方町の生まれだそうで恩方の夕焼けの美しさを詠ったとも言われている。
私も幼いころ・・・そうもう60年近く前・・・その美しさを良く覚えている。
みんなのお顔もまっかっか!という童謡もあるがまさにその通りの夕焼けだった。
そんな日々の中で 夕方になると蝙蝠が飛び交い、ほんの一瞬かげろう達が無数に数珠繋がりになってあたりの音が止む。
かげろうは動くでもなく私の腰の辺りに漂い 桃色や水色に透ける羽が宝石のように綺麗で我を忘れた。
かげろうの池にスッポリはまってしまった気持ちだった。
八王子は盆地だけれど一番低い平地に住んでいた私にも日常的に富士山の頭が見えていた。
影踏みをして遊んだのもいつまでだったろうか。
結婚して長女がお腹にいた時の春、やっぱりあの綺麗な夕焼けをバックに亡くなった母と写真を撮ったなぁ。
40年も前の話。
それから幾年月。
私には子供のころから知っていたあの陰影が感じられない。
それは光と影。
陰影の世界。
物質世界の立体感。
苦しいほどのリアリティ。
今私は自分が霞のかかったようなはっきりしない世界で生きていると感じている。
それって私の内面の問題なのだろうか。
それだけなのだろうか。
私に見えるものが平面的で生命の躍動感を失っている。
それは私がそうだからだろうか。
私には地球が変わってしまったと感じられる。
今の子供たちは、圧倒的な自然美を日常的には見ることが出来ないのではと思う。
そう思うと数百年前の人が私の子供時代を垣間見ることが出来たら同じことを思うのだろうね。
現をぬかしながらそんな事を考えていると
昔自然はどんな姿でここに佇んでいたのだろうかと息が苦しくなるような胸のざわつきを覚える。
口をポカンと開けて圧倒的な美しさと驚きに包まれていたい。
なんて思う。
いつのころからか感じていたことがある。
八王子は夕焼けの里と呼ばれる。
詩人 中村雨紅が生地八王子駅に降り立ったときその夕焼けのあまりの美しさにこれを作詩したと聞いた。
八王子市恩方町の生まれだそうで恩方の夕焼けの美しさを詠ったとも言われている。
私も幼いころ・・・そうもう60年近く前・・・その美しさを良く覚えている。
みんなのお顔もまっかっか!という童謡もあるがまさにその通りの夕焼けだった。
そんな日々の中で 夕方になると蝙蝠が飛び交い、ほんの一瞬かげろう達が無数に数珠繋がりになってあたりの音が止む。
かげろうは動くでもなく私の腰の辺りに漂い 桃色や水色に透ける羽が宝石のように綺麗で我を忘れた。
かげろうの池にスッポリはまってしまった気持ちだった。
八王子は盆地だけれど一番低い平地に住んでいた私にも日常的に富士山の頭が見えていた。
影踏みをして遊んだのもいつまでだったろうか。
結婚して長女がお腹にいた時の春、やっぱりあの綺麗な夕焼けをバックに亡くなった母と写真を撮ったなぁ。
40年も前の話。
それから幾年月。
私には子供のころから知っていたあの陰影が感じられない。
それは光と影。
陰影の世界。
物質世界の立体感。
苦しいほどのリアリティ。
今私は自分が霞のかかったようなはっきりしない世界で生きていると感じている。
それって私の内面の問題なのだろうか。
それだけなのだろうか。
私に見えるものが平面的で生命の躍動感を失っている。
それは私がそうだからだろうか。
私には地球が変わってしまったと感じられる。
今の子供たちは、圧倒的な自然美を日常的には見ることが出来ないのではと思う。
そう思うと数百年前の人が私の子供時代を垣間見ることが出来たら同じことを思うのだろうね。
現をぬかしながらそんな事を考えていると
昔自然はどんな姿でここに佇んでいたのだろうかと息が苦しくなるような胸のざわつきを覚える。
口をポカンと開けて圧倒的な美しさと驚きに包まれていたい。
なんて思う。