臨床心理のとくにユング派にとって、「ゲド戦記」は非常に重要な物語である。
これは早くから河合隼雄先生が注目していたせいでもあるが、ル=グウィンによる「ゲド戦記」はユング派的、あるいは深層心理的な世界をみごとに表現している。個人的に非常に重要に思うのは、特にゲドが「旅」をする移動の状況を無駄とも思えるほど克明に描いていることだ。
たとえばゲド戦記Ⅰ「影との戦い」の後半で果てしなく影を追ってさまよう場面が延々と描かれている。 病気の自分が言うのもなんだが、これは深層心理的に心の病の者が延々と「影=自己との和解」を捜し続けていることを、あるいは人生自体が「影=自己との和解=本当の自己」を求めていることを彷彿とされる。
たぶんこの自己への旅には、旅の「こつ」が存在するのだ。 残念なことに誰でもたどり着けるものではないし、ボクもたどり着いていない。
だいたい臨床心理をやった人間は「ゲド戦記」を読んでいるが、宮崎五朗監督(宮崎駿の息子)のジプリ・アニメ「ゲド戦記は大抵見ていない。
村上春樹の「ノルウェイの森」はボクにとって非常に大切な作品だった。丁度、二十歳前後にひきこもりをしていたときに、何度も何度も読み返した。いろんな批評や女性側からの批判はあるだろうが、あれは亡くしたものへの傷みや人生の影の側を扱っていたのだと思う。そしてボク自身暗い森の中を彷徨っていた。
それは村上の初期三部作、特に「羊をめぐる冒険」でもいまよりもだいぶ荒いタッチではあるが同様だったと思う。「鼠」はあきらかに「ボク」の「影」だ。「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」もそのまま「影」がテーマだ。
河合隼雄先生と村上春樹はたまたまアメリカの大学で出会う訳だが、これは「必然」であったように思う。何しろ河合先生の初期の著作が「影の現象学」という題名なのだから。
ボクは村上のノルウェイの次の作品「ダンス・ダンス・ダンス」を読んだことが、引きこもりをやめるひとつのきっかけだった。対談集「村上春樹、河合隼雄に会いに行く」の中で河合先生のクライアントさんがやはり「ダンス・ダンス・ダンス」を読んだのがきっかけでひきこもりをやめたというエピソードには本当に驚いた。
それはル=グウィンにしろ、村上春樹にしろ「こころの奥の物語」を「影」をテーマにしているからだと思う。
いまだ「1Q84」は読んでいない。
文庫じゃない村上春樹はなるべく読みたくないのだ(といいつつ、ひきこもりのとき読んだ村上作品は兄貴の買ってきたハードカヴァーだった)。
けれど前作の「海辺のカフカ」は何度も読み直している。
特に下巻はたぶん20~30回、読み直している。それだけの深い森があるのだと思う。