前に紹介した神田橋條治先生の講演録の同じところ。
「躁うつ病はそうではなくて、これは後で精神療法のときに大事になります が、もともと気分屋で、気分本位にふわふわ、ひょこひょこ、いろいろとするように生まれついている脳で、波がもともとある。それがある狭いところに閉じこめられると、もともとある波が大きくなってきて、生活に支障があるほどになると、病気ということになると考えると大体、病歴と合います。生活を狭める、注意を狭める、興味野を狭める。そうすると、もともとあった波が大きくなってきます。」
で、考えてみると、うつ病という診断を受けてから、ボクは一生懸命治そうとしてきたような気がする。
医者が認知行動療法をするといえば、それをきちんとやっていったし、カウンセラーが集団療法をやれといわれれば、それをきちんとやってきた。
でも、もし神田橋先生のいうような気分屋のふわふわした脳で、「ある狭いところに閉じ込められると、波が大きくなり、病気になる」のであれば、治療自体もボクがあんまりにも一生懸命治療参加することが逆に病気を悪くしたのではないかという思いがわき上がってきた。
「治療」や「病気」に生活を狭め、注意を狭め、興味野を狭めた生活を送ってきたともいえる。
そもそも、診断自体が「うつ病」という間違った診断であったわけで、精神療法でもカウンセリングでも、神田橋先生が双極性障害には禁忌とする「自省」を随分やってきた。確かにボクも含めて双極性障害の人間は自分を省みることが「苦手」なのかもしれない。少なくとも「自省」のあとに、精神療法にしてもカウンセリングにしてもよい方向へ進んではいない。むしろ心の揺れがいっそう大きくなった。
とすると、変な言い方ではあるが「一生懸命治そうとしないこと」が自分にとって大切な態度なのかもしれないと思った。
以前書いたように「日々を少しずつ重ねていくこと」も結局は「一生懸命治そうとしないこと」と近いのだろう。