bowbowのゆううつ~Returns

双極性障害Ⅱ型(躁うつ病)サバイバー&共生模索中のbowbowの日常。

急激に調子悪化。

2011-07-08 14:43:12 | 双極性障害・躁うつ病

昨日あるきっかけで急激に調子が悪化した。

死にたくなったので、抗精神薬で鎮静作用の強いヒルナミンを自己判断で頓服として飲んだ。

結局、外からのアプローチや偶発的出来事は防ぎようがないということだ。だって心が揺れるのが双極性障害、しかも躁鬱混合状態と日内変動のある自分の症状タイプなのだから。

だから今日は予定を早めて病院へ行くことにした。

病院へ行ったからといって状況が大きく変わるわけではないが、何にもしないよりはましだろう。

ヒルナミンにしろ病院にしろ揺れを最小限に留めようとする努力であるわけで、その意味では多少成長しているのだろう。


今日の処方 ~ 朝・夕:デパケンR錠/計600mg 寝る前:サイレース錠2mg・ルーラン錠16mg+セロクエル錠100mg とんぷく:ヒルナミン錠5mg


ゲド戦記とノルウェイの森。

2011-07-07 06:13:21 | 日記

臨床心理のとくにユング派にとって、「ゲド戦記」は非常に重要な物語である。

これは早くから河合隼雄先生が注目していたせいでもあるが、ル=グウィンによる「ゲド戦記」はユング派的、あるいは深層心理的な世界をみごとに表現している。個人的に非常に重要に思うのは、特にゲドが「旅」をする移動の状況を無駄とも思えるほど克明に描いていることだ。

たとえばゲド戦記Ⅰ「影との戦い」の後半で果てしなく影を追ってさまよう場面が延々と描かれている。 病気の自分が言うのもなんだが、これは深層心理的に心の病の者が延々と「影=自己との和解」を捜し続けていることを、あるいは人生自体が「影=自己との和解=本当の自己」を求めていることを彷彿とされる。

たぶんこの自己への旅には、旅の「こつ」が存在するのだ。 残念なことに誰でもたどり着けるものではないし、ボクもたどり着いていない。

だいたい臨床心理をやった人間は「ゲド戦記」を読んでいるが、宮崎五朗監督(宮崎駿の息子)のジプリ・アニメ「ゲド戦記は大抵見ていない。

村上春樹の「ノルウェイの森」はボクにとって非常に大切な作品だった。丁度、二十歳前後にひきこもりをしていたときに、何度も何度も読み返した。いろんな批評や女性側からの批判はあるだろうが、あれは亡くしたものへの傷みや人生の影の側を扱っていたのだと思う。そしてボク自身暗い森の中を彷徨っていた。

それは村上の初期三部作、特に「羊をめぐる冒険」でもいまよりもだいぶ荒いタッチではあるが同様だったと思う。「鼠」はあきらかに「ボク」の「影」だ。「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」もそのまま「影」がテーマだ。

河合隼雄先生と村上春樹はたまたまアメリカの大学で出会う訳だが、これは「必然」であったように思う。何しろ河合先生の初期の著作が「影の現象学」という題名なのだから。

ボクは村上のノルウェイの次の作品「ダンス・ダンス・ダンス」を読んだことが、引きこもりをやめるひとつのきっかけだった。対談集「村上春樹、河合隼雄に会いに行く」の中で河合先生のクライアントさんがやはり「ダンス・ダンス・ダンス」を読んだのがきっかけでひきこもりをやめたというエピソードには本当に驚いた。

それはル=グウィンにしろ、村上春樹にしろ「こころの奥の物語」を「影」をテーマにしているからだと思う。

いまだ「1Q84」は読んでいない。

文庫じゃない村上春樹はなるべく読みたくないのだ(といいつつ、ひきこもりのとき読んだ村上作品は兄貴の買ってきたハードカヴァーだった)。

けれど前作の「海辺のカフカ」は何度も読み直している。

特に下巻はたぶん20~30回、読み直している。それだけの深い森があるのだと思う。


みなとみらいで買い物。

2011-07-06 19:18:47 | 双極性障害・躁うつ病

先日、兄貴から突然電話がかかってきた。

 

「会社が節電対策で平日休みになった。 16時にみなとみらいにこい。 買い物に行こう。」

「金ないよ。 傷病手当て切れて復職してない障害者なんだから。」

「買ってやる。」

 

前の自分なら「悪いから断る」「いじける」ところだが、このところ新しい薬のためか、調子もまあまあだった。 それでその有難い申し出をうけたbowbowなのだった。

みなとみらいに来るのは、一昨年のアドベントのクリスマスツリー設置コンサート以来だった。 別にそのコンサートを見に行った訳じゃなく、妻と行ったらたまたま平原綾香がランドマークプラザで歌っていた。

 

急な予定だったのだがみなとみらい駅まで行って、兄貴と買い物をした。

人ごみは結構疲れる・・・

ユニクロとH&Mと名前は忘れたがスペイン系アパレルと何件かまわった。

去年から運動療法を強化しているので、体重が一時50kg前後まで落ちた。 今はたぶん55kg前後だ(いまの医者に換わったとき、「ちょっと急激に痩せすぎ。うつや脅迫的かもしれん」といわれた)。

今回ショッピングで判明したのは、服が男ものだと身体に合うものがほとんどない事実である(特にパンツ系)。

ユニクロではWomensのMの夏物パンツ、H&Mでは半袖シャツ子供服を買った。

ちなみに靴は23.5cmなのですでに女性用である。 靴下も子供服売り場で探す。

 

なんにしても、気力があればたまに精神障害者も買い物へ行くのも気分転換としてはいいものだ。

ランドマークのターリーズで兄貴と音楽・文学・哲学の話になる(ちなみに彼は理系だ)。 なかなかこの3つすべて網羅して話すことのできる相手は少ない。

子供の頃は身勝手なろくでもない兄貴だと思っていたが、うちの家族のなかで意外といちばんまともなのかもしれない。


よい精神科医、わるい精神科医。

2011-07-02 09:06:27 | 双極性障害・躁うつ病

この表題は、単純に「よい精神科医わるい精神科医」のつもりで付けていない。 児童精神分析家のM.クラインの「よいおっぱい、わるいおっぱい」から連想して付けている。

患者にとってよい医者、わるい医者とは単純にいえるものではないと経験的に思う。

フロイトが指摘したように、医者と患者との関係は相互の患者の内部を医者に投影してしまう「転移」と、医者の内部を患者に投影してしまう「逆転移」がしばしば起こる。

機能不全家族やトラウマを抱えた患者、双極性障害の様に躁と鬱状態で判断の視点が偏って弱っているとき、こうした転移現象は容易に起こる。

精神科医・内海健氏が指摘しているように、特に双極性2型障害の患者には、彼が「同調性」と呼ぶ独特の病前性格が伴う。 簡単にいえば、アダルト・チャイルドの様に、先んじて周囲人たちの状況を察知し、それに先回りして配慮をする。 この性格はうまく回っているときには周囲からも非常に重宝され、高い能力として評価される。 ただ一度その歯車が狂ってしまうと、その先回りの配慮は的を外すことになり空回りし、ストレスと病的な方向へと移動する。

精神科医でかつてミュージシャンであった北山修氏はこうした状況を「自虐的世話役」と名づけている。 北山氏はクラインと同様の児童精神分析家ウィニコットから大きな影響を受けている。

内海健氏は双極性2型障害のこうした過剰といえるほどの(空回りも含めた)周囲への配慮の心性を理解できない精神科医だと「安定した治療関係を結ぶことは難しい」との趣旨を自著「うつ病新時代」の中で語っている。

双極性2型障害の患者の場合、こうした心性に一定の受け止めを医者に感じないと、治療関係は早晩破綻する(実際自分も経験している)。 転移も逆転移も容易に起こる。

それじゃあ、そうしたことを受け止められない医者が悪いのかといえば、単純にそうではない。

双極性2型障害でない心の病であれば、そうした受け止めが下手な医者でもちゃんと機能するのだ。 マッチングの問題といってもいい。

ただ、問題があるとすれば、精神科医本人が自分にそうしたセンスがあるのかないのか、訓練的習得を目指すのか目指さないのか、自己洞察する必要はあると思う。 そして自分の手に余るのであれば、早めに相応しい専門医や専門病院を紹介するのが本当のプロだと思う。

「よい精神科医、わるい精神科医」がもし存在するとすれば、そこの部分だと思う。