米国メジャーリーグ 22日現在ヤンキースのジャッジは46本塁打を記録し、シーズン終了時に60本塁打を軽く超える勢いでヤンキースの勝利に貢献しています。 一方エンゼルスの大谷選手が8月13日10勝目を挙げ ベーブルースの2桁勝利2桁本塁打(13勝・11HR)達成以来104年ぶりの快挙を達成しました。
現時点において、46本のホームランを放っている本塁打ランキング1位のジャッジを今季のア・リーグMVPに推す声は多いのだそうです。
しかし、大谷が二刀流としてベーブ・ルース氏以来となる大活躍を続けていることから、大谷をア・リーグMVPに推す声もあるのだとか。60本以上打ってヤンキースが優勝すれば順当にいけばジャッジが今季のア・リーグMVPだという声の方が大きくなってきているようですが・・・。
疲れ知らずで、異彩を放ち続ける大谷。今季102打点、OPS1.050と打ちまくっているアーロン・ジャッジとのMVP争いも話題となるなかで、翔平君のハイレベルなパフォーマンスからは目が離せないところです。
果たしてどちらがMVPにふさわしいのか?歴史的快記録達成か優勝のための貢献度か?シーズン終了まで結論のでない話題です。
さて 猛暑が続いているうちに二十四節気は、「立秋」の次へ 8月23日に「処暑」となります。
8月23日頃 処暑とは、暑さが終わるという意味です。まだ昼間は暑い日が続きますが、 朝夕は涼しい風が吹き渡わたり、気持ちのよい時期です。また、この頃には秋の台風が訪れます。
暑さがひと段落するタイミングで、日によっては夏の服装だとハッと身が引き締まるほどの寒さを感じることがあるこの時期は、花が終わり穀物や綿花など実りの秋の始まりとなります。
柎とは花の萼(がく)のことです。柎が開き始めるとふわふわとした綿毛が中からとび出してきます。
天気図には秋雨前線が登場し、冷たい空気とともに秋を運んできます。とはいっても、日中はまだまだ暑く、夏の気候が続きます。
稲穂はこぼれるように実り、色づき始めます。しかし、この時期は台風が襲来してくる時期であり、各地で農作を祈るお祭りが開催されます。
葡萄は上部分が糖度が高いので、下から食べると徐々に甘みが強くなり美味しく食べることができます。
昔からスズムシとともに鳴く虫の代表とされていました。
秋の夜長に癒しの音色を響かせてくれます。
名前の由来は、すぐに弱ってしまう魚ということから、魚に弱いとつけて「鰯」
ですが、実際は「海の米」「海の牧草」と呼ばれ、世界中の海の生態系を支えています。
朝に開いて、夜にはしぼんでしまうことから、「槿花一朝の夢」といった成句も存在するほど、はかなく涼やかな花とされています。木槿は韓国の国花としても知られています。
七草は春だけではなく秋にもあります。
萩・桔梗・葛・藤袴・女郎花・尾花・撫子が秋の七草です。春の七草のように七草粥にするのではなく、観賞用として親しまれています。
盆踊り(ぼんおどり)は、盆の時期に御先祖様の魂を供養するための行事、
現在も、初盆の供養を目的の盆踊りも地域によっては催されています。太鼓と「口説き」と呼ばれる唄に合わせて踊り、口説きは、地区の伝統でもあり、初盆の家を各戸を回って踊る所もあるそうです。昔は旧暦の7月15日に行われていました。ゆえに、盆踊りはいつも満月であったのです。
誰でも踊りに参加できるタイプと、主に見せるために限定された踊り手が踊るタイプとがあり、前者は、広場の中央にやぐらを立て、やぐらの周囲を回りながら音頭にあわせて踊る形式が一般的です。盆踊りの伴奏音楽としては多く音頭が奏でられますが、近年は録音された音頭を電気的に再生して行なうことが主流になっています。
この項 出典: 暦生活 および ウイキペディア
https://www.543life.com/season/shosho
閑話休題 :うなぎの「関東風」や「関西風」について
2022年は、7月23日(土)と8月4日(木)が土用の丑の日に当たる。
夏の土用の丑の日が2度あるときは、「一の丑」「二の丑」と呼ぶ。
うなぎの調理法は昔から、関東風と関西風の違いがある。
うなぎの「関東風」や「関西風」について、こんな通説がある。武士が多い江戸では“切腹”を連想させる腹開きは縁起が悪いから背開きになった、というものだ。実は、この通説はウソだ。
元来、魚の干物の開き方は、腹開きが基本だ。内臓を取りやすくしているのだ。もし、江戸時代から今日に至るまで、関東では魚を全て背開きにしなければいけなかったことになりつじつまがあわない。
関東・関西の調理法の違いを マーケティング・コンサルタント 新山勝利氏が 氏の研修セミナーで講演している。わかりやすいので抜粋してみた。
料理の提供時に、頭の有無があるのもおかしい。うなぎは、関東でも関西でも、頭を落として提供する。これは、丼やお重に入れてふたをするからだ。名誉とされる武士の切腹は縁起が悪いと見なして、一方で死刑を連想させる首を落とす行為は良いことになると、これも矛盾している。
ここで、関東と関西におけるうなぎの調理方法 調理される過程で最大の違いは、蒸す作業があるか否かだ。
関東では、うなぎを蒸し器に入れる際に頭が残っていた場合、その分は無駄なスペースになるので、最初に取っておく。関東でうなぎを刺すときに使われる竹串には、蒸し器でも抜け落ちることがない上、熱伝導率が低いため熱くても持てるというメリットがある。短い金串を使った場合、持ち上げたら滑って抜け落ちてしまう上、熱くて持てない。
なぜ関東は背開きなのだろうか。理由は簡単だ。背の厚いところから竹串を刺した場合、蒸してふっくらしても、串を持ち上げたときに身が割けることがないのだ。
一方、関西では腹開きにするので、内臓を手早くかつ楽に取ることができる。串を腹から刺す際、複数尾をまとめて刺すので、串を長くする。そして、頭に金串を1本刺して固定し、次に胴体部分も刺してから焼き上げるだけなので、あまり動かす必要がなく割けることがない。竹串で長く時間をかけて焼けば、串が焼け落ちてしまう。
うなぎ職人曰く 「竹串は細いので腹から刺すのは難しいが、金串は先が尖っているから刺しやすい」という。
それでも、何度も串を持って表と裏をひっくり返して焼いているうちに、身がU字形に収縮して型崩れを起こすことがある。そのために「縫い串」で修正しながら串を何本も刺す店もある。皮はパリパリでも、身がもまれ、中は十分に柔らかくなる。
「串打ち三年、割き八年、焼き一生」 うなぎのかば焼きの調理技術の格言だ。意外なことに、三つ目の「焼き」は、炭の使い方を体得すれば、この中では一番先に覚えられるという。ただし、関東と関西では、炭の状態や火力の扱いは全く違う。
それよりも難しいのが、生きているうなぎの管理だという。季節に応じて、打ち水や氷で体温を下げて動きを止めなければならない。
また、串打ちに三年、割きに八年もかかっていては、一人前の職人にはなれない。串打ちも割きもスピード勝負だ。「焼き一生」は、「この先も絶えず精進しないといけない」と解釈すべきだと聞く。
さて、関東と関西の開き方の境界線は、静岡県浜松市の天竜川だ。
浜松のうなぎは、100年以上の歴史を持つ。1900(明治33)年、服部倉治郎が浜名湖を養殖に最適な場所と判断し、養鰻池を造り育てたという。
浜松駅 近くでは、背開きと腹開きのうなぎ屋が混在しており、その違いを楽しむことができる。
◇うなぎ屋の「大人の事情」とは?
かば焼きに加工する工場では、関東風と関西風でさばき方とタレを変えて作っているが、使用するうなぎは同じものだ。ただし、関東風でも1尾をそのまま切らずに焼くものもある。反対に、関西風では1尾でも頭のあるものとないものがあり、関東風と同様に頭を取り、切り分けてしまうのもある。
工場でうなぎを焼く際には、ベルトコンベヤーで流れてきたうなぎを焼くグリル機器を使い、ベテラン職人の焼く温度を再現している。そのため、串で刺すことはしない。うなぎの専門店ではない、コンビニやスーパー、飲食チェーン店でうなぎを見かけたら、外側を見てほしい。串の穴の跡は、どこにも付いていないはずだ。うなぎ屋でも、穴のないうなぎがあるのは「大人の事情」と聞く。
工場でも、オリジナルの「秘伝のタレ」や焼き方など、チェーン店ごとにレシピを変えている。某有名コンビニのかば焼きラインでは、途中に炭焼きコーナーを入れて香りをまとわせている。
かば焼きの由来は、室町時代にまでさかのぼる。『鈴鹿家記』によれば、植物の蒲(がま)の穂のようにぶつ切りにして、串に刺して焼いたのが始まりだという。
その後は、酢みそや山椒みそ、からしを付けて食べていたが、野田や銚子でしょうゆが生まれてタレを付けるようになった(寺島良安『和漢三才図会』1712年、喜多川守貞『守貞謾稿』1853年)。
初めは、うなぎは酒のさかなだったが、ご飯が持ち込まれるようになり、ご飯とうなぎの両方が別々に出されるようになった。うな丼の起源は、宮川政運の『俗事百工起源』(1865年)によると、文化年間(1804~18年)に日本橋堺町(現在の中央区日本橋人形町3丁目)の芝居小屋だとされる。当時、経営者である大久保今助が大のうなぎ好きだったという。中村座(座元は代々中村勘三郎)の興行時での金主(スポンサー)であった。うなぎとご飯を食事のたびに取り寄せていたが、冷めるのを嫌った今助が、一緒にしてふたをして運ばせたのが由来だという。
ただし、それ以外にもうなぎ屋で提供していたとする文献もある(青葱堂冬圃『真佐喜のかつら』1857年)。いずれにせよ、うな丼の始まりはその頃であろう。
◇うなぎの調理法が東西で異なる理由 「関東風」の調理はいつ始まった?
では、うなぎはいつから蒸すようになったのだろうか。それについては、はっきりと記載された文献が見当たらない。江戸時代後期の文献で、越谷でうなぎを食べる話の中に重箱に入れて蒸す場面があるが、江戸前のうなぎをいつ蒸すようになったのかは不明。ここでは、たまり味噌に砂糖を入れて煮立たせる調理方法であった(津田敬順『十方庵遊歴雑記』1812~29年)。
江戸時代のうなぎ屋で、うなぎを割く場と焼き場が描かれた絵(錦絵や黄表紙、浮世絵など)には、蒸し器が描かれていない。炭で火をおこす蒸し器と焼き場は、火の管理や始末が難儀なため、隣同士にあるはずだ。それを描いた絵が1枚もないということは、江戸時代には存在していなかったのではないだろうか(朋誠堂喜三二『女嫌変豆男』1777年、山東京伝『唯心鬼打豆』1792年、勝川春亭『江戸前大蒲焼 大和田店先』1804~10年、鍬形蕙斎(北尾政美)『職人尽絵詞』1804~17年)。
うなぎ業界の重鎮に聞いたところ、蒸したのは、江戸時代の末期か明治に入ってからだという。
うなぎは湖や川、河口の底で岩や石の隙間やその下、砂泥の中に隠れて生息している。関東平野は広大な平地が続いており、川の流れも緩やかで川底に泥がたまりやすく、そこで育ったうなぎは川魚独特の臭いや味となっていた。季節や食べていたものがうなぎの風味に影響を与える上、内臓に泥が残っていても味が変わるという。
天然うなぎは、住む場所が違えば生育状態が変わる。江戸のうなぎは皮が厚かったという。蒸し器に入れたうなぎは、余分な脂が抜け落ちると同時に臭みも抜け、ふっくらと姿を変える。
関西では、山と海までの距離が短く、高低差もある。川の流れが速く水質もきれいなので、関西のうなぎは泥臭さを感じない。
うなぎを蒸すという関東独自の調理法は、うなぎ屋が臭みを解消するための理想的な策だったのかもしれない。 粉ざんしょうをかけて臭みを緩和する日本料理は、うなぎのかば焼き以外ではあまりない。
それに、蒸すまでの作業を事前に行っておけば、最後の「焼き」の調理時間は10分程度と大幅に短縮できる。注文が来れば焼く作業だけで済むという利便性もあり、大量消費時代を迎えた江戸ではぴったりの調理法だった。当時は冷蔵、冷凍技術が何もなかったため、蒸しは一石二鳥の調理テクニックだったのだ。
関西では、注文が入ってから割く作業を開始し、そこから一気に焼き上げるので、時間がかかってしまう。前述の『守貞謾稿』には、関東と関西で焼き方が反対(背開きと腹開き)に書かれており、サイズ感も間違っているように見える。2つの異なる開き方が分かるというのは、参照に値する。史料の中には、うなぎに刃を入れようとする場面は背開きだが、まな板でさばかれたものは腹開きだけ、というものもあった(一勇斎国芳画『かばやき沢村訥升』1842年)。
江戸後期の国学者、斎藤彦麿(1768~1854年)の随筆『傍廂』には、かば焼きを「今、背より開きて、竹串さしたるなれ」との記述があり、小寺玉晁(ぎょくちょう、1800~78年)の『江戸見草』では、「鰻大小共に背割也」と書かれた部分がある。ということは、江戸の末期には背開きが行われていたことになる。
以上(From; ダイヤモンド・オンライン)
個人的には 背開きでも腹開きでも どちらでも気にならないが、九州柳川で食した鰻のせいろは その味が忘れらないくらい美味であった。西なのに蒸してあった、そして ものすごく美味かったことを追記したい。