暑中お見舞い申し上げます。 令和4年 盛夏
ここ数週間ジリジリと強い日差しが照りつけて、危険な暑さの猛暑日が続き、朝晩耳をつんざくセミの合唱が暑さを加速します。
8月7日 立秋(りっしゅう)の頃は 毎日暑い日が続きますが、お盆明けには秋の気配が少しずつ感じられます。
今年の夏は2回「丑の日」が到来するため、うなぎを食べる機会が多くなると、うなぎ屋にとってはまたとないビジネスチャンスと言えます。
この2度の「丑の日」をビジネスチャンスと捉え、飲食業などのサービス産業だけでなくコンビニやスーパーなどの小売業でも大々的にプロモーションを展開したことだと思います。
立秋のこの日から、季節の挨拶も暑中見舞いから残暑見舞いに替わりますのでお忘れなく。
さて 立秋 七十二候では、
立秋 七十二候 立秋 初侯 8月7日〜8月11日頃
涼風至 すずかぜいたる
夏の暑い風から、秋の涼しい風に替わりはじめる頃。
夏の暑い風から、秋の涼しい風に替わりはじめる頃。
朝夕に吹き抜ける涼やかな風。秋へと移ろう季節の巡りを感じる頃
まぶしく輝いている太陽も日射しを和らげ、
夕方に鳴く虫たちの音色も涼しさを演出してくれます。
ヒグラシは日の出前や日没後によく鳴き、
立秋 次侯 8月12日〜8月16日頃
寒蝉鳴 ひぐらしなく
夏の終わりを告げるかのように、ヒグラシが鳴いている頃。
夏の終わりを告げるかのように、ヒグラシが鳴いている頃。
ヒグラシは日の出前や日没後によく鳴き、
終わってしまう夏を惜しんでいるかのように聞こえます。
朝夕のひんやりとした心地よい空気の中、深い霧が幻想的な風景をつくりだします。
ひげが茶色く、ふさふさしているものは栄養価が高く美味しい玉蜀黍とされています。
桃のジューシーな果肉は肌を若返らせる効果があるそう。
八月八日から十日は、八九十(はくとう)の語呂合わせから、白桃の日とされています。
最大の生産国であるロシアでは国の花とされ、
日本でも43の市区町村の花に指定されています。
蛍を飼うときに、籠につゆくさを入れることから「蛍草」とも呼ばれています。
本来は青年男女が無行息災などを願い、エイサーを踊りながら、集落内を練り歩いていましたが、戦後は各地のエイサーが集まり大会が行われるようになりました。
この項 出典: 暦生活 および ウイキペディア
https://www.543life.com/season/risshuu
夏至・小暑・大暑・立秋
冒頭にも述べたが今年も暑い夏を迎え、「土用の丑(うし)の日」が訪れる。
2022年は、7月23日(土)と8月4日(木)が土用の丑の日に当たる。
夏の土用の丑の日が2度あるときは、「一の丑」「二の丑」と呼ぶ。
土用とは、立夏・立秋・立冬・立春の直前の18日間を指す。
「土用の丑の日」は夏の印象が強く、近頃では夏の「土用の丑の日」にうなぎを食べるというイメージが定着している。
昔の暦では、いわゆる十二支(子・丑・寅・卯…)で日にちを数えていた。そのため、暦の上では春夏秋冬にそれぞれ土用の丑の日があり、毎年その日は変わる。
夏の丑の日にうなぎを食べる風習は、いつ始まったのだろうか。蘭学者で発明家の平賀源内がこの風習を広めた、という説を聞いたことのある方も多いのではないだろうか。 俗に 「丑の日にうなぎ」を広めたのは平賀源内ということになっている。
江戸時代、夏はうなぎが痩せてしまい脂が乗っておらずおいしくないので、あまり食べられていなかった。売り上げ不振のうなぎ屋から相談を受けた源内は、「本日丑の日」と店頭に張り紙(今でいうPOP)を出すように提案したという。
このPOPが当たったのか うなぎ屋は大繁盛し、周りの店もまねをしたことで、この風習が現代まで続いたというのが通説だ。
これは、青山白峰の随筆『明和誌』(1822年)が出典といわれているが、実はそんなことはどこにも書かれていない。この随筆には、安永・天明年間(1772~88年)頃から、土用の丑の日にうなぎを食べる風習があったと書かれているだけだそうな。
真偽のほどは定かでないが平賀源内という人物は安永5年(1776年)には長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を修理して復元するなど多才を極め 当時時代きってのコピーライターでもあったらしい。ゆえに ウナギや店主の相談に乗って張り紙を勧めても何の不思議もない。
土用の起源は、中国から伝わった「陰陽五行(いんようごぎょう)思想」にある。この五行とは、「木、火、土、金、水」の5つを指し、世の全てはこの5つが循環することで成り立つという考え方だ。春を「木」、夏は「火」、そして秋が「金」で冬は「水」で、「土」をそれぞれの季節に18日間割り当てた。つまり「土用の丑の日」とは、季節の変わり目の土用と、十二支の丑が重なる日のことだ。
また、丑の日には「う」の付くものを食べることで、無病息災を祈願する風習がある。当時の黄表紙(絵の余白に文章をつづった本)にも、「今日うしの日」と書かれた店頭の張り紙や、うなぎを焼く姿が描かれている(橋本養邦『江戸年中風俗之絵』)。うなぎ以外に、うどんや梅干し、瓜(キュウリやスイカなど)も食べられていた。
実は、うなぎを食べる文化は古くからあり、奈良時代の『万葉集』にある大伴家持の歌にも、「うなぎは夏痩せに良いから食べるように」といった記述がある。
平賀源内の話に戻ろう。源内は戯号(ペンネーム)である「風来山人」の名での著書、『里のをだまき評』(1774年)でも、江戸前うなぎと旅うなぎの味には差がないと書いている。
この「江戸前」の言葉は、当初はうなぎブランドを意味していた。江戸城近くにまで迫る海(当時は埋め立てが現在ほど進んでおらず、江戸城は海岸のすぐ近くにあった)や、隅田川、神田川、深川などの河川で取れたもので、江戸っ子たちにいたく珍重されていた。一方、江戸前以外のうなぎは、「旅うなぎ」として区別されていた。
実は源内は、日本のコピーライター第1号ともいわれている。恵比寿屋兵助の依頼を受け、歯磨き粉「嗽石香」の宣伝文を引札(ひきふだ:今でいうチラシ)に書いている(風来山人『飛花落葉』、1783年)。源内はマーケティング・コンサルタントでもあったのだ。
彼は当時、誰もが知る有名スターで、肩書も多くあり、マルチな才能で大活躍していた。宣伝文を他で書いた実績があり、うなぎの味にも一家言あることから、後世にそれらが結び付けられてしまったようだ。
次回は 関東と関西で異なる鰻の調理法について少しだけ迫ってみたい。
立秋 末侯 8月17日〜8月22日頃
蒙霧升降 ふかききりまとう
森や水辺に白く深い霧がたちこめる頃。
森や水辺に白く深い霧がたちこめる頃。
朝夕のひんやりとした心地よい空気の中、深い霧が幻想的な風景をつくりだします。
立秋 旬のもの 野菜 玉蜀黍とうもろこし
ひげが茶色く、ふさふさしているものは栄養価が高く美味しい玉蜀黍とされています。
立秋 旬のもの 果物 桃
七月から九月が旬である桃。
桃のジューシーな果肉は肌を若返らせる効果があるそう。
八月八日から十日は、八九十(はくとう)の語呂合わせから、白桃の日とされています。
立秋 旬のもの 花 ひまわり
最大の生産国であるロシアでは国の花とされ、
日本でも43の市区町村の花に指定されています。
立秋 旬のもの 花 つゆくさ
つゆくさの花で布を染めたことから「着き草」と呼ばれていたそう。
蛍を飼うときに、籠につゆくさを入れることから「蛍草」とも呼ばれています。
立秋 行事 エイサー
お盆の行事として沖縄県で行われているエイサー。本来は青年男女が無行息災などを願い、エイサーを踊りながら、集落内を練り歩いていましたが、戦後は各地のエイサーが集まり大会が行われるようになりました。
この項 出典: 暦生活 および ウイキペディア
https://www.543life.com/season/risshuu
夏至・小暑・大暑・立秋
閑話休題 :「土用の丑の日」が2度あるとき
冒頭にも述べたが今年も暑い夏を迎え、「土用の丑(うし)の日」が訪れる。
2022年は、7月23日(土)と8月4日(木)が土用の丑の日に当たる。
夏の土用の丑の日が2度あるときは、「一の丑」「二の丑」と呼ぶ。
土用とは、立夏・立秋・立冬・立春の直前の18日間を指す。
「土用の丑の日」は夏の印象が強く、近頃では夏の「土用の丑の日」にうなぎを食べるというイメージが定着している。
昔の暦では、いわゆる十二支(子・丑・寅・卯…)で日にちを数えていた。そのため、暦の上では春夏秋冬にそれぞれ土用の丑の日があり、毎年その日は変わる。
夏の丑の日にうなぎを食べる風習は、いつ始まったのだろうか。蘭学者で発明家の平賀源内がこの風習を広めた、という説を聞いたことのある方も多いのではないだろうか。 俗に 「丑の日にうなぎ」を広めたのは平賀源内ということになっている。
江戸時代、夏はうなぎが痩せてしまい脂が乗っておらずおいしくないので、あまり食べられていなかった。売り上げ不振のうなぎ屋から相談を受けた源内は、「本日丑の日」と店頭に張り紙(今でいうPOP)を出すように提案したという。
このPOPが当たったのか うなぎ屋は大繁盛し、周りの店もまねをしたことで、この風習が現代まで続いたというのが通説だ。
これは、青山白峰の随筆『明和誌』(1822年)が出典といわれているが、実はそんなことはどこにも書かれていない。この随筆には、安永・天明年間(1772~88年)頃から、土用の丑の日にうなぎを食べる風習があったと書かれているだけだそうな。
真偽のほどは定かでないが平賀源内という人物は安永5年(1776年)には長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を修理して復元するなど多才を極め 当時時代きってのコピーライターでもあったらしい。ゆえに ウナギや店主の相談に乗って張り紙を勧めても何の不思議もない。
土用の起源は、中国から伝わった「陰陽五行(いんようごぎょう)思想」にある。この五行とは、「木、火、土、金、水」の5つを指し、世の全てはこの5つが循環することで成り立つという考え方だ。春を「木」、夏は「火」、そして秋が「金」で冬は「水」で、「土」をそれぞれの季節に18日間割り当てた。つまり「土用の丑の日」とは、季節の変わり目の土用と、十二支の丑が重なる日のことだ。
また、丑の日には「う」の付くものを食べることで、無病息災を祈願する風習がある。当時の黄表紙(絵の余白に文章をつづった本)にも、「今日うしの日」と書かれた店頭の張り紙や、うなぎを焼く姿が描かれている(橋本養邦『江戸年中風俗之絵』)。うなぎ以外に、うどんや梅干し、瓜(キュウリやスイカなど)も食べられていた。
実は、うなぎを食べる文化は古くからあり、奈良時代の『万葉集』にある大伴家持の歌にも、「うなぎは夏痩せに良いから食べるように」といった記述がある。
平賀源内の話に戻ろう。源内は戯号(ペンネーム)である「風来山人」の名での著書、『里のをだまき評』(1774年)でも、江戸前うなぎと旅うなぎの味には差がないと書いている。
この「江戸前」の言葉は、当初はうなぎブランドを意味していた。江戸城近くにまで迫る海(当時は埋め立てが現在ほど進んでおらず、江戸城は海岸のすぐ近くにあった)や、隅田川、神田川、深川などの河川で取れたもので、江戸っ子たちにいたく珍重されていた。一方、江戸前以外のうなぎは、「旅うなぎ」として区別されていた。
実は源内は、日本のコピーライター第1号ともいわれている。恵比寿屋兵助の依頼を受け、歯磨き粉「嗽石香」の宣伝文を引札(ひきふだ:今でいうチラシ)に書いている(風来山人『飛花落葉』、1783年)。源内はマーケティング・コンサルタントでもあったのだ。
彼は当時、誰もが知る有名スターで、肩書も多くあり、マルチな才能で大活躍していた。宣伝文を他で書いた実績があり、うなぎの味にも一家言あることから、後世にそれらが結び付けられてしまったようだ。
次回は 関東と関西で異なる鰻の調理法について少しだけ迫ってみたい。
平賀 源内(ひらが げんない、享保13年(1728年) - 安永8年12月18日(1780年1月24日))は、江戸時代中頃の人物。本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家。
源内は通称で、元内とも書いた。諱は国倫くにとも、字は子彝しい。数多くの号を使い分け、画号の鳩渓きゅうけい、俳号の李山りざんや、戯作者としては風来山人ふうらいさんじん、浄瑠璃作者としては福内鬼外ふくうちきがいの筆名を用い、殖産事業家としては天竺浪人てんじくろうにん、生活に窮して細工物を作り売りした頃には貧家銭内ひんかぜにないなどといった別名も使っていた。
注)記事中 「平賀 源内」については「フリー百科ウイキペディア」および「ダイヤモンド・オンライン」より抜粋引用したものです。季節の写真および旬の素材については「フリー写真集」から引用転載したものがあります。