丼季報亭「8万時間の休息」

旅の記録や季節の便りそれに日々の思いを軽いトーンで綴ってみました。

575. 冬至を境に太陽が生まれ変わり、陽気が増え始め

2021-12-21 01:33:30 | 季節の便り

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  一年でもっとも夜が長い、昨年の24節気 第12冬至は12月22日でしたが、今年は12月21日になります。
この日は冬至風呂と称して柚子湯に入るのですが、天保9年の『東都歳時記』によれば流行し始めたのは江戸の銭湯からであるといいます。
寒さを乗りきるために、栄養価の高いかぼちゃを食べ、柚子湯に浸かり無病息災を願います。
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  冬至(とうじ)とは1年間で太陽の位置が最も低くなる日です。 1年間で日中が最も短くなり、冬至を境に太陽が生まれ変わり、陽気が増え始めるとされています。秋分から春分までの間、北半球では太陽は真東からやや南寄りの方角から上り、真西からやや南寄りの方角に沈みます。冬至の日にはこの日の出(日出)・日の入り(日没)の方角が最も南寄りになるのです。
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  南中高度とは、太陽が真南に来て、いちばん高く上がったときの地平線との間の角度のことをいいます。
冬至のときは、一年でいちばん南側の東からのぼり、お昼には南中高度が一年でいちばん低いところを通って、一年でいちばん南側の西に沈みます。そうすると、昼間が短く、夜が長くなります。冬至の日には北緯66.6度以北の北極圏全域で極夜となり、南緯66.6度以南の南極圏全域で白夜となります。
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 1年で日の出の時刻が最も遅い日・日の入りの時刻が最も早い日と、冬至の日とは一致しません。日本では、日の出が最も遅い日は冬至の約半月後(年明け)の1月上旬頃であり、日の入りが最も早い日は冬至の約半月前の12月上旬頃です。

冬至(とうじ)七十二候


冬至 初侯 12月22日〜12月25日頃
乃東生(なつかれくさ しょうず) : 夏枯草が芽を出す(日本)
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夏になると枯れてしまう靭草(うつぼぐさ)の芽が出る頃。靭草は芽を出す頃ですが、この草以外の草木のほとんどは枯れていきます。

次侯 12月26日〜12月30日頃
麋角解(びかく げす) : 大鹿が角を落とす(日本)
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 ヘラジカの角が生え変わる頃。
枝分かれした大きな角が抜け落ち、春にまた新しい角が生え始めます。

末侯 12月31日〜1月4日頃
雪下出麦(ゆきわりて むぎ のびる) : 雪の下で麦が芽を出す(日本)
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降り積もった雪の下で、麦が芽を出しはじめる頃。重い雪の下で、暖かい春をじっと待っています。

72候も 中国では若干の差異があります。
以下中国バージョンです。
初候 蚯蚓結(きゅういん むすぶ) : 蚯蚓が地中で塊となる(中国)
次候 麋角解(さわしかの つの おる) : 大鹿が角を落とす(中国)
末候 水泉動(すいせん うごく) : 地中で凍った泉が動き始める(中国)

「冬至」旬の魚 鮪まぐろ
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冬に産卵期を迎えるため、この時期の鮪はたっぷりと脂がのっています。
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更に甘味や旨味、香りも強くなり非常に良い状態です。

「冬至」旬の果物 柚子ゆず

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「柚子湯に入ると一年間風邪をひかない」といわれるほど、
柚子には血行を促進して冷え性をやわらげる効果があります。

「大雪」旬の鳥 雀すずめ

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冬の雀は、厳しい寒さから身を守るため、全身の羽毛をふくらませます。
そのふっくらと丸い姿から「ふくら雀」といわれています。

「大雪」旬の野菜 黒豆くろまめ
正月の料理になくてはならない存在である黒豆。
「まめ」は真面目や忠実という意味に通じることから、縁起物とされています。
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「冬至」最大の行事 :除夜の鐘
大晦日から元旦にかけて108回の鐘をつきます。108回の数字は、月の数、二十四節気、七十二候を足した数という説から、その他にも様々な説が伝えられています。
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煩悩の数:眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)の六根のそれぞれに好(こう:気持ちが好い)・悪(あく:気持ちが悪い)・平(へい:どうでもよい)があって18類、この18類それぞれに浄(じょう)・染(せん:きたない)の2類があって36類、この36類を前世・今世・来世の三世に配当して108となり、人間の煩悩の数を表します。
1年間 月の数の12、二十四節気の数の24、七十二候の数の72を足した数が108となり、1年間を表します。
なお、寺によって撞く回数は108回と決まらず、200回以上の場合などがあります。

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大晦日深夜から初詣でにぎわうような有力寺院を中心として、21世紀においても年越しの風物詩として続いています。一方で、役僧・檀家の高齢化や近隣住民から騒音としての苦情により、大晦日の昼間に撞いたり、中止したりする寺もあります。こうした動きに対しては「騒音ではなく、安易にやめる必要はない」「ラジオの普及で広まった文化であり、深夜にこだわる必要はない」という両論があるのも事実です。

蛇足ながら 二十四節気のなかで、夏至・冬至・春分・秋分の4つの季節のことを「二至二分(にしにぶん)」といいます。
これは、冬至と夏至で「二至」、春分と秋分で「二分」、あわせて二至二分です。二至二分には、それぞれ意味があります。

夏至:北半球では、1年のうち、昼の時間が最も長くなる日
冬至:北半球では、1年のうち、昼の時間が最も短くなる日
春分:昼と夜の時間の長さがほぼ同じになる日
秋分:春分同様、昼と夜の時間の長さがほぼ同じになる日

この項 参照 出典: 暦生活  および ウイキペディア
https://www.543life.com/season/taisetsu



このほか 日本には次のような風習があります。
・ 星祭(ほしまつり):各自の生まれ年の十二支に該当する当年星を祀って、無病息災を祈る。
・ 冬至風呂 : この日は冬至風呂と称して柚子湯に入る。
またこの日には以下のものを飲食する風習があります。
・ 冬至粥 : 冬至の日の朝に小豆粥を食す。
・ 冷酒 
・ とうなす(かぼちゃ): 冬至にはカボチャの煮物を食べる風習がある。
・ コンニャク : コンニャクを「体の砂払い」と称し、体内の悪いものを掃除するという。
・ 「と」の付く食べ物: 冬至の「と」に因んで、豆腐・唐辛子・ドジョウ・いとこ煮。
今でも冬至の前にはスーパーや魚屋でドジョウの売り出しの風景が見られる。豆腐は季節柄、湯豆腐にされることが多い。


閑話休題:運命か実力か?

 時空を超えてタイムスリップをテーマにしたSFドラマをよく見る。 今月ちょっとはまったのは主人公が2016年から自分の生まれる前の年1989年へ飛んで自らの出生の秘密に迫る台湾ドラマ。 もともとSF作品は大好きで邦画・洋画・アジアドラマからあまり選り好みせず見ている。 医師のタイムスリップドラマ「仁」など 日本の作品も韓国の作品も飽きるほど何度も見た。
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潜在心理に、過去へ戻れたら別の人生を選択したいとの強い願望がそうさせている。 人生には常に別の選択があったことを知らない少年は一途に強くなることのみを願い、神に願った。「我に七難八苦・艱難辛苦を与え給え」であった。 この願いは数倍になって実現されることを13歳の少年は知らなかった。 実に浅はかな願いであった、要領よく生きるすべを教えてくれと願えばよいものを、苦難を選択した。 希望通りこの後数えきれないほどの試練は襲ってきた。
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中学時代を紹介すると、2年生秋修学旅行に行くことになった。すると担任の教師から呼び出しを受けある特命が下る。それは札付きのクラスメートの監視役であった。「旅先や街歩きの過程で他校の生徒と悶着を起こさぬように監視し、その事態が発生したら体を張って止めること」 朝から晩までその生徒の動向を監視した。自分の修学旅行はどこかへ消え特命Gメン任務遂行とは、笑われるかもしれないが本当にあった話。請け負った私も私であると思うが、指示した教諭も相当な人物であったことは間違いない。これは試練の時というより鍛錬の時か?

当時私はサッカー部の主将をやる傍ら、非行により少年院送りになった生徒の更生に一役買っていた。グラウンドの片隅で寂しそうにしていた彼をサッカーのチームに誘い、キックや走法を知らない彼をゴールキーパーに仕立て上げた。やがて彼は更生し立派なレギュラーとなり県大会に出場するほどになった。彼を県大会へ出場させ,一緒にプレーできることを夢見ていた。 しかしながら.....

私は県大会前日盲腸となり入院、病院の前で翌日の試合に向かうチームのメンバーを見送った。 私が手塩にかけてまとめていったチームの最後の試合は入院中で出場できなかった。不思議なほど試練の時が続く。地道な努力も隣人への善意も私の運命の女神の前では力不足であった。いや隣人にはしっかりプラスをもたらし、私はその分だけマイナスの運を担当したと言えるのかもしれない。
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所属していたサッカーチームはのちに四国大会に優勝するくらいにまで成長していった。このチームの監督であった教諭は 数年後隣の工業高校で野球部の監督となり、巨人・南海で活躍した河埜兄弟を見出し指導して有名人になりかけたほどであった。 数少ない仲の良いざっくばらんな教師であったが、人づてにその師も先日旅だったと聞く。ご冥福を祈り 合掌。

中学・高校・大学 それぞれの時代ごとに普通に生きているのに簡単に試練の時とのめぐりあわせが待っていた。 よほど前世の悪行が影響しているのかとすら思った。もはや 何がきても恐れることはない。 何しろ運気にだけはめぐまれていないし、つきもない。 
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高校時代は柔道部に属していたが、上級生がぬけていよいよ自分たちの出番が来たと思ったら、翌年二人の卓越した技を駆使できる後輩が加入してきた。この二人の強さは群を抜いていた。 当時2人はいずれも南予地区では1.2位を争う試合巧者で、個性的な技による強さを持っていた。2年生の秋 彼らにレギュラーの座を奪われた私には二度と公式戦への出番はなくなった。

大学時代 私の好きな女性は大阪にいて遠距離恋愛中であった。 離れていると携帯電話がない時代のことで、いろんな誤解が生じる。さて下宿先の次男は私の友人の妹に興味を持っていたがまったく相手にされなかった。その頃 友人についてきた彼女と私が親しげに話をするのを見て快く思っていなかったようであった。

折悪しくもその大阪の女性が最後に私にSOSの電話をよこした夜、下宿先の次男はなぜかまともに取り次いでくれなかった。彼は私がもう寝ていると思って取り次がなかったと言っていたが...電話取次の仕組みがまさにこの時代を反映している。私が故意に電話に出ないと勘違いした彼女は 結果的に自らの生涯をフイにするような選択をして消息を絶った。 

最後に相談の電話があったことすら知らされず私の恋は終わっていた。しばらく後に「あの日電話に出てくれなかったのは自分への気持が終わったのだと思った」という言葉を人づてに聞いた。半世紀後におとずれる携帯電話全盛時代であればこの事態は発生しなかったであろう。

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大学を卒業して後 外資系コンピューターメーカーに就職した。

この時まで私に与えられた試練はすべてが不可抗力であり、避けられるものではなかった。 
けっして普通ではない人生のスタート、社会人になった初端(しょっぱな)にこれらを総括するような事態が待っていた。

それは社会に出て間もない青年の普通でない人生の幕開けのようですらあった。 
運命の女神が試練を与え続けることに躍起になっているようにすら見えた。 

そして1971年12月8日就職して最初の年の暮れ、下宿先の隣家から出火。 類焼した下宿先で資産や書籍・文献のすべて衣類や生活必需品すべてを失った。 寒空に焼け出され、文字通り裸一貫になってしまった時にはこれで自分を襲う不運はピークに達したと思った。
 
 しかしこれで この後の生き方の選択の路をかなり狭めることになった。 まずは生活に追われることになり 衣類や生活必需品をはじめ失くしたものを少しずつ揃えることには否応なしに時間を要した。 裸一貫・ゼロからのスタート、この先の金欠生活は大きなハンディであった。

 今からちょうど50年前であった。 師走の寒い夜、俗にいう裸一貫になったのだから口で言うほど軽い話ではなかった。社会人としての初端(しょっぱな)に不意打ちを食らったようなものだった。 しかも この後これからという重要な時期には 狙ったように必ず 不測の何かが付きまとうのである。

 一瞬ですべてを失くすと 翌朝の日常生活の必需品から買いそろえていかねばならない。 手元にあったのはボーナスの残り10万円程度だけであった。 衣類はその時着ていた一着のスーツと身に着けた下着しかない。人間の運というものは勤勉な日常や日々の努力とは関係ないところに存在していることを思い知らされた瞬間でもあった。

 ともあれ、手元には着るものがない。 季節が変わるたびに、必要に応じて身に着けるものを新規購入していくことになった。夏冬異なるビジネススーツ、並行してYシャツ、ネクタイ、靴下などなど。世に出てまだ間もない年であっただけに貯えなどほとんどないし、大きなハンディとなって生活に追われていく。

 生きることに精一杯の人生だから、選択の余地はそれほど多くない。 まずは最低限の生活の必需品を買い求め、趣味やぜいたく品は2の次である。 弱気になったり、強気になったり、自己嫌悪に陥ったり、不安定な精神状態の中をひたすら前だけを向いて歩き始めるしかない。 

 これまでも誰も助けてくれなかったし、短命が3代も続く数奇な運命の家系を背負ってしまったようだ。 若さと勢いで開き直って立ち向かうしかない。 与えられた試練をいくら乗り越えても こんな人生だから常に漠然とした不足感がついて回った。 この漠然とある不足感から自分はいつ解放されるのだろう? 

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  そして 人生最大のピンチ どん底と思える時期に二つの決断を下すことになった。
  その後の人生50年以上を決定づけるような決断であった。
    ちょうど一年前の冬至のころ私は東京病院で手術を受けるため入院していました。 あっという間にあれから一年が過ぎ去っていきました。右肺下葉を除去したのが15日、気胸により2度目の手術を受けたのが22日でした。状況からして正月は病院のベッドで迎えることを覚悟していたころでした


Part.2 了        To Be Continued
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2 コメント

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Unknown (愕然草)
2021-12-21 20:30:45
今回は特にハラハラしながら読ませていただきました。私の知っていること、初めてうかがうこと、相半ばして、そうだったのかと思った事でした。
ここに書いて良さそうなこととして、あなたの虫垂炎は結構、重症で、退院後、その肥大した摘出虫垂のホルマリン漬けを見せてもらった事をよく覚えております。あの時代は腹痛で受診すると皆、虫垂炎として切られていましたが、あなたのは本物でしたね。
また読ませていただきます。どうぞお大事にされて下さい。
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Unknown (丼季報亭)
2021-12-22 04:16:29
愕然草さん
いつもコメントありがとうございます。

摘出してホルマリン漬になっていた人差し指サイズの虫垂はのちに切り開くと中央にグラウンドの砂がたくさん入っていました。

思いおこすと、当時のサッカーチームは、少年院から戻ってきた生徒だけでなく すでに中卒で就職が決定している生徒数人を含み いわゆる猛者が多く 取りまとめるには多少の力も必要でしたね。 私は試合には出られませんでしたが、就職した翌年の夏 彼らはわが家を訪ねてくれました。

特命Gメンを任命したのは直木賞だか芥川賞だかを目指して創作活動に精力を注いでいた、国語のあの先生です。少し手ごわいところがありましたね。

詳しくは次回の顔合わせ時にでも....

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