あっというまに一週間が過ぎていきましたが、既報「端午の節句」続編です。
いったいいつ頃からこの日にちまきと柏餅を食するようになったのでしょうね?
「兜の飾りもの」や「ちまきと柏餅」と端午の節句との関係は遠く歴史を遡ることになります。
風習とその由来
そもそも5月5日を端午とする風習は、なんと起源は3世紀の中国、楚で始まったとされます。
楚の国王の側近であった屈原は人望を集めた政治家でありました。 ところが失脚し失意のうちに汨羅江に身を投げたそうです。 それを知った楚の国民たちはちまきを川に投げ込み魚達が屈原の遺体を食べるのを制したのが始まりと言われています。
しかし後漢末の応邵による『風俗通義』では端午と夏至にちまき(古代には角黍と称した)を食べる習慣が記録されているものの屈原との関係には一切言及されていません。
また南朝梁の宗懔による『荊楚歳時記』には荊楚地方では夏至にちまきを食べるという記録が残されるのみであり、ちまきと屈原の故事は端午とは元来無関係であったと考えられます。
この他に夏殷周代の暦法で5月5日は夏至であったという説、呉越民族の竜図騰崇拝に由来するという説、5月を「悪月」、5日を「悪日」とし、夏季の疾病予防に菖蒲を用いたという説も存在するなど諸説あります。
中国での端午の記録は晋の周処による『風土記』に記録される「仲夏端午、烹鶩角麦黍」です。
また『荊楚歳時記』には「五月五日…、四民並蹋百草之戯、」と記録があり、端午当日は野に出て薬草を摘み、色鮮やかな絹糸を肩に巻き病を避け、邪気を払う作用があると考えられた蓬で作った人形を飾り、また菖蒲を門に書け邪気を追い払うと同時に竜船の競争などが行われていたようです。
これは現代日本においても菖蒲や蓬を軒に吊るし、菖蒲湯(菖蒲の束を浮かべた風呂)に入る風習として今なお残っています。 筆者も5日に菖蒲湯に浸かりました。
さて日本においては、男性が戸外に出払い、女性だけが家の中に閉じこもって、田植えの前に穢れ(けがれ)を祓い身を清める儀式を行う五月忌み(さつきいみ)という風習があり、これが中国から伝わった端午と結び付けられたようです。
つまり 端午はなんと 元々女性の節句だったのです。宮中では菖蒲を髪飾りにした人々が武徳殿に集い天皇から薬玉(くすだま:薬草を丸く固めて飾りを付けたもの)を賜っていました。
かつての貴族社会では薬玉を作りお互いに贈りあう習慣もあったのです。宮中の行事については奈良時代に既にその記述が見られます。
やがて鎌倉時代ごろから「菖蒲」が「尚武」と同じ読みであること、また菖蒲の葉が剣を形を連想させることなどから、端午は男の子の節句とされ、男の子の成長を祝い健康を祈るようになったようです。
鎧、兜、刀、武者人形や金太郎を模した五月人形などを室内の飾り段に飾り、庭前にこいのぼりを立てるのが、典型的な祝い方となりました。
こいのぼりをたてる風習は中国の故事にちなんでおり、男子の立身出世を祈願しているのです。典型的なこいのぼりは、5色の吹き流しと3匹(あるいはそれ以上の)こいのぼりからなります。吹き流しの5色は五行説に由来します。
端午の日にはちまきや柏餅(かしわもち)を食べる風習もあり、ちまきを食べるのは、中国戦国時代の楚の愛国詩人屈原の命日にちまきを投げ入れて供養したこと、また、屈原の亡骸を魚が食らわないよう魚のえさとしたものがちまきの由来とされますが諸説あります。
ただし 柏餅を食べる風習は日本独自のものだそうです。 柏餅が日本の歴史に登場したのは、徳川九代将軍の家重~十代将軍の家治の頃だと言われています。
柏は新芽が出るまで古い葉が落ちないことから「家系が絶えない」縁起物として江戸時代末期から広まっていったようです。ちまきは1800年あるいはそれ以上の長い歴史があり、柏餅はおよそ250-60年前ですから、意外に新しいものだったのです。
今日も お立ち寄りいただき 有難うございました。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋・加筆しました