3月になってここ数日グッと暖かくなり、昼間は春本番の陽気です。
今日も日中の気温が19度Cの予報で穏やかなしのぎやすい一日になりそうです。
3月5日は春の季語でもある啓蟄(けいちつ)です。 二十四節気の3番目に登場する節気です。
「啓」は「開く」、「蟄」は「虫などが土中に隠れ閉じこもる」意味で、「啓蟄」で「冬籠りの虫が這い出る」(広辞苑)という意を示しており、 二十四節気の啓蟄(けいちつ)とは、土中で冬ごもりをしていた生き物たちが目覚める頃のことをいいます。
生き物たちは久しぶりに感じるさわやかな風と、
麗らかな春の光の中で生き生きとしています。
今日も日中の気温が19度Cの予報で穏やかなしのぎやすい一日になりそうです。
3月5日は春の季語でもある啓蟄(けいちつ)です。 二十四節気の3番目に登場する節気です。
「啓」は「開く」、「蟄」は「虫などが土中に隠れ閉じこもる」意味で、「啓蟄」で「冬籠りの虫が這い出る」(広辞苑)という意を示しており、 二十四節気の啓蟄(けいちつ)とは、土中で冬ごもりをしていた生き物たちが目覚める頃のことをいいます。
生き物たちは久しぶりに感じるさわやかな風と、
麗らかな春の光の中で生き生きとしています。
啓蟄 七十二候
啓蟄 初侯 3月5日〜3月9日頃
蟄虫啓戸 すごもりむしとをひらく
啓蟄 初侯 3月5日〜3月9日頃
蟄虫啓戸 すごもりむしとをひらく
何も食べずに冬の間中眠っていられるのも生命の神秘ですね
土中で冬眠をしていた虫たちが、暖かい春の日差しの下に出てき始める頃。啓蟄 次侯 3月10日〜3月14日頃
桃始笑 ももはじめてさく
桃のつぼみが開き、花が咲き始める頃。
昔は“咲く”という言葉を“笑う”と表現したそうです。
ゆっくりと開いていく桃の花は、ほほ笑んでいるようにも見えたのだとか。
菜虫化蝶 なむしちょうとなる
厳しい冬を越したさなぎが羽化し、美しい蝶へと生まれ変わり、羽ばたく頃。
菜虫とは、大根や蕪などの葉につく青虫のことをいいます。
小学校時代にモンシロチョウの成長過程を観察し、
市内の理科の発表会で説明したことがありました。
その時は科学者を目指していたかもしれません。
春から秋にかけて収穫され、旬は3月~5月頃。
寿司や天ぷらによく用いられる高級食材です。
今はサヨリは高級食材として珍重されますが、
長い間それほど珍しい高級魚だと思った記憶がありません。
羽を広げると黄色のきれいな模様がはっきりと見えます。
数羽で行動することが多く、春から夏にかけて
頻繁に住宅街に現れているのだそうです。
山菜の中でもあくが強く、時間がたつと硬くなってしまうので、
採った日には必ずあく抜きをします。
クローバーとよく似ていますが、全く異なる植物です。
夜になると葉をしぼませ眠りについたように見えます。
収穫が終わる秋には山に戻っていきます。
この神様の移動日である三月と十一月の十六日に、
十六個の団子を供えることを「十六団子」と言います。
一生懸命だと知恵が出る。
中途半端だと愚痴が出る。
いい加減だと言い訳が出る。
武田信玄の言葉ですが、言いえて妙 言い尽くしていると思います。
嫁いだ先は病弱な弟と嫁入り前の4人の妹がいて、順に嫁に出していくにはかなりの資金を事業以外でも稼がねばならなくなっていた。
そんな折、儲け話と称し危険な仕事が持ち掛けられた。 沖縄で太平洋戦争中に生じたスクラップの処理を請け負い本土まで運搬するという話であった。 それは三国人の経営する幽霊会社がもちかけ、セットアップしたとの話であった。
もともと危険な戦後のどさくさに付け込んだ怪しげな話ではあったのだが。
当時所有していた木造の運搬船「庄吉丸」で沖縄に向かうことにした。 船長や乗組員などの人を雇い他に出資者も一緒に沖縄に向かった。
**香川県仲琴平町の「金丸座」 は天保6年(1835)に建てられた現存する日本最古の芝居小屋。江戸情緒漂う日本最古の芝居小屋です。木造2階建ての瓦葺きの建物には升席や桟敷の客席に、舞台装置は当時のまま残されていて、重要文化財に指定されています。四国こんぴら歌舞伎大芝居は毎年4月にこちらで上演しています。(出典:「金丸座」公式サイトより)
***大正5年(1916年)に大正天皇の即位を祝い創建された内子座。木造2階建ての瓦葺き入母屋作り、純和風様式の本格的な芝居小屋として建設されました。回り舞台や花道、桝席、楽屋などがあり当時の建築技術の粋が集められた建造物です。近年、老朽化のため取り壊されるところ、地元住民の熱意により改修が決定。昭和60年(1985年)に復原工事が完了し、芝居小屋として再出発を果たしました。今では、町内外の芸術文化活動の拠点として活用されています。(出典:「内子座」 公式サイトより)
****昭和30年ごろの映画館
そのころの八幡浜には映画館が4軒ありました。
・東映専門の「八劇」時代劇からやがて新興やくざ映画に替わり足が遠のいた記憶があります。
・その隣に日活専門のスクリーン「八劇」の別館「明星劇場」裕次郎や小林旭よりまず赤木圭一郎に惹かれていた気がします。
・そして洋画の「新映(新開地映画劇場の略)」現在はホテル。「ベン・ハー」と「十戒」だけは強烈な印象で残っています。描かれた洋画のスケールは衝撃的でした。
・そして若大将シリーズやらゴジラの東宝映画専門の「平和館」以上4軒があったのですが、WEBのどこにもその記録が残っていません。
現在の八幡浜市には映画の上映できる施設・劇場・ホールは 2施設あって
・八幡浜市文化会館ゆめみかん:〒796-0202 愛媛県八幡浜市保内町宮内
・八幡浜市民会館:〒796-0066 愛媛県八幡浜市本町
「ゆめみかん」と「市民会館」はそれぞれ最大収容人員812人の大ホールを持ち、映画の上映できますが、毎日上映しているいわゆる映画館ではありません。
また八幡浜劇場は昭和42年にボーリング場、後にはローラースケート場となったが昭和46年2月に全焼し焼失していました。 話の起源が町から消えてしまっていました。
桃始笑 ももはじめてさく
桃のつぼみが開き、花が咲き始める頃。
昔は“咲く”という言葉を“笑う”と表現したそうです。
ゆっくりと開いていく桃の花は、ほほ笑んでいるようにも見えたのだとか。
啓蟄 末侯 3月15日〜3月19日頃
菜虫化蝶 なむしちょうとなる
厳しい冬を越したさなぎが羽化し、美しい蝶へと生まれ変わり、羽ばたく頃。
菜虫とは、大根や蕪などの葉につく青虫のことをいいます。
小学校時代にモンシロチョウの成長過程を観察し、
市内の理科の発表会で説明したことがありました。
その時は科学者を目指していたかもしれません。
旬のもの 魚 さより
春から秋にかけて収穫され、旬は3月~5月頃。
寿司や天ぷらによく用いられる高級食材です。
今はサヨリは高級食材として珍重されますが、
長い間それほど珍しい高級魚だと思った記憶がありません。
旬のもの 鳥 かわらひわ
羽を広げると黄色のきれいな模様がはっきりと見えます。
数羽で行動することが多く、春から夏にかけて
頻繁に住宅街に現れているのだそうです。
旬のもの 野菜 わらび
わらびは野山などの日当たりのいい場所に多くみられる山菜です。
わらびは野山などの日当たりのいい場所に多くみられる山菜です。
山菜の中でもあくが強く、時間がたつと硬くなってしまうので、
採った日には必ずあく抜きをします。
旬のもの 花 かたばみ
ハート型の3枚の葉に、小さな黄色い花が春から秋にかけて咲きます。
ハート型の3枚の葉に、小さな黄色い花が春から秋にかけて咲きます。
クローバーとよく似ていますが、全く異なる植物です。
夜になると葉をしぼませ眠りについたように見えます。
旬のもの 行事 十六団子 じゅうろくだんご
春には農作物を守るために“田の神様”が山から里へ下りてきます。
春には農作物を守るために“田の神様”が山から里へ下りてきます。
収穫が終わる秋には山に戻っていきます。
この神様の移動日である三月と十一月の十六日に、
十六個の団子を供えることを「十六団子」と言います。
一生懸命だと知恵が出る。
中途半端だと愚痴が出る。
いい加減だと言い訳が出る。
武田信玄の言葉ですが、言いえて妙 言い尽くしていると思います。
閑話休題: 運命的な出会い_序
古くより四国は芝居熱が高く 天保6年(1835)に建てられた仲琴平町の「金丸座」** や大正5年(1916年)に創建された「内子座」*** などで中央から出向いて歌舞伎大芝居が 毎年公演されていた。
八幡浜劇場****は昭和11年(1936)7月に完成、建築様式は歌舞伎座の建物を模したもので木造建築物としては四国最大のものであった。
もともと歌舞伎を公演できる劇場として建てられた八幡浜劇場主は終戦後リニューアルした劇場のこけら落としに その時代一世を風靡していた市川右太衛門一座の公演興行を企画した。が、全く利益が見込めず赤字覚悟の興行主は八幡浜市内ではなかなか見つからなかった。
そんな折 市民に楽しみを提供してやれるならとリスク覚悟で興行主をやると名乗り出た男がいた。
この大赤字の興行は予想外の副産物を生んだ。
八幡浜劇場****は昭和11年(1936)7月に完成、建築様式は歌舞伎座の建物を模したもので木造建築物としては四国最大のものであった。
もともと歌舞伎を公演できる劇場として建てられた八幡浜劇場主は終戦後リニューアルした劇場のこけら落としに その時代一世を風靡していた市川右太衛門一座の公演興行を企画した。が、全く利益が見込めず赤字覚悟の興行主は八幡浜市内ではなかなか見つからなかった。
そんな折 市民に楽しみを提供してやれるならとリスク覚悟で興行主をやると名乗り出た男がいた。
この大赤字の興行は予想外の副産物を生んだ。
興行主を買って出た男は公演当日舞台への花道脇の桝席最前列に座って舞台を観劇していた大黒町商家の小町娘を見初め、一目惚れしてしまったのだ。 しかし 男には その時親同士が決めた許嫁がいた。 すでに相手は決まっていたのである。
江田島海軍兵学校少尉で終戦を迎えた男は帰郷後網元の権利を相続し、魚粉肥料工場を経営していた。向灘の半農半漁の旧家の長男で父親が早世していたため、若くして7代目を継いでいた。
一度決まっている話をリセットするには容易でない悶着はあったが、一度見染めた小町に人を介して接近を試みた。そんなときに限って間に立ってこの話を進めた人物がいたのだ。
親同士が決めた縁談は破談とされ 間に第三者を介して男の願いは急速に実現に向かった。結婚したいという男の意志は固く 話の進行は強引ですらあった。嫁入り道具の準備が間に合わず、タンスは母親の使用していたものをそのまま持参せざるを得ないほどであったという。
嫁ぎ先は海岸沿いに魚粉の工場を有し、食用にできない魚を茹で 干したものを粉砕し肥料として出荷する事業であった。
いっぽう裏山で自宅食用の野菜を栽培し、家から徒歩30分の根窪に農地を持ち麦やサツマイモなどを育てていた。
ほとんど何の抵抗もなく親の言いなりで嫁いだ商家の町娘は、嫁入り後その考えが甘かったことを痛感していた。
炊事をしようにも山から引いた水は冷たく 湯沸し器などない時代のこと。 冬になるとその冷たさに震え上がった。
このころの農家では 家族全員が労働力。 家事炊事に加え農作業までが加わった。 やがて町娘は2人の男の子をなした。
重いものなど持ったこともない腕にクワを持ち 初めてやる農耕作業のつらさに涙した。
とりわけ臨月ですら休ませてもらえず、夫に話が違うと訴えたが、何の効果もなかった。
農業の体験のない商家の娘が突然農家に嫁ぐ無理の程度を痛感したが、気づきは遅かった。
江田島海軍兵学校少尉で終戦を迎えた男は帰郷後網元の権利を相続し、魚粉肥料工場を経営していた。向灘の半農半漁の旧家の長男で父親が早世していたため、若くして7代目を継いでいた。
一度決まっている話をリセットするには容易でない悶着はあったが、一度見染めた小町に人を介して接近を試みた。そんなときに限って間に立ってこの話を進めた人物がいたのだ。
親同士が決めた縁談は破談とされ 間に第三者を介して男の願いは急速に実現に向かった。結婚したいという男の意志は固く 話の進行は強引ですらあった。嫁入り道具の準備が間に合わず、タンスは母親の使用していたものをそのまま持参せざるを得ないほどであったという。
嫁ぎ先は海岸沿いに魚粉の工場を有し、食用にできない魚を茹で 干したものを粉砕し肥料として出荷する事業であった。
いっぽう裏山で自宅食用の野菜を栽培し、家から徒歩30分の根窪に農地を持ち麦やサツマイモなどを育てていた。
ほとんど何の抵抗もなく親の言いなりで嫁いだ商家の町娘は、嫁入り後その考えが甘かったことを痛感していた。
炊事をしようにも山から引いた水は冷たく 湯沸し器などない時代のこと。 冬になるとその冷たさに震え上がった。
このころの農家では 家族全員が労働力。 家事炊事に加え農作業までが加わった。 やがて町娘は2人の男の子をなした。
重いものなど持ったこともない腕にクワを持ち 初めてやる農耕作業のつらさに涙した。
とりわけ臨月ですら休ませてもらえず、夫に話が違うと訴えたが、何の効果もなかった。
農業の体験のない商家の娘が突然農家に嫁ぐ無理の程度を痛感したが、気づきは遅かった。
嫁いだ先は病弱な弟と嫁入り前の4人の妹がいて、順に嫁に出していくにはかなりの資金を事業以外でも稼がねばならなくなっていた。
そんな折、儲け話と称し危険な仕事が持ち掛けられた。 沖縄で太平洋戦争中に生じたスクラップの処理を請け負い本土まで運搬するという話であった。 それは三国人の経営する幽霊会社がもちかけ、セットアップしたとの話であった。
もともと危険な戦後のどさくさに付け込んだ怪しげな話ではあったのだが。
当時所有していた木造の運搬船「庄吉丸」で沖縄に向かうことにした。 船長や乗組員などの人を雇い他に出資者も一緒に沖縄に向かった。
序 Part-1) 了 To Be Continued
**香川県仲琴平町の「金丸座」 は天保6年(1835)に建てられた現存する日本最古の芝居小屋。江戸情緒漂う日本最古の芝居小屋です。木造2階建ての瓦葺きの建物には升席や桟敷の客席に、舞台装置は当時のまま残されていて、重要文化財に指定されています。四国こんぴら歌舞伎大芝居は毎年4月にこちらで上演しています。(出典:「金丸座」公式サイトより)
***大正5年(1916年)に大正天皇の即位を祝い創建された内子座。木造2階建ての瓦葺き入母屋作り、純和風様式の本格的な芝居小屋として建設されました。回り舞台や花道、桝席、楽屋などがあり当時の建築技術の粋が集められた建造物です。近年、老朽化のため取り壊されるところ、地元住民の熱意により改修が決定。昭和60年(1985年)に復原工事が完了し、芝居小屋として再出発を果たしました。今では、町内外の芸術文化活動の拠点として活用されています。(出典:「内子座」 公式サイトより)
****昭和30年ごろの映画館
そのころの八幡浜には映画館が4軒ありました。
・東映専門の「八劇」時代劇からやがて新興やくざ映画に替わり足が遠のいた記憶があります。
・その隣に日活専門のスクリーン「八劇」の別館「明星劇場」裕次郎や小林旭よりまず赤木圭一郎に惹かれていた気がします。
・そして洋画の「新映(新開地映画劇場の略)」現在はホテル。「ベン・ハー」と「十戒」だけは強烈な印象で残っています。描かれた洋画のスケールは衝撃的でした。
・そして若大将シリーズやらゴジラの東宝映画専門の「平和館」以上4軒があったのですが、WEBのどこにもその記録が残っていません。
現在の八幡浜市には映画の上映できる施設・劇場・ホールは 2施設あって
・八幡浜市文化会館ゆめみかん:〒796-0202 愛媛県八幡浜市保内町宮内
・八幡浜市民会館:〒796-0066 愛媛県八幡浜市本町
「ゆめみかん」と「市民会館」はそれぞれ最大収容人員812人の大ホールを持ち、映画の上映できますが、毎日上映しているいわゆる映画館ではありません。
また八幡浜劇場は昭和42年にボーリング場、後にはローラースケート場となったが昭和46年2月に全焼し焼失していました。 話の起源が町から消えてしまっていました。
冬でも普通にお湯が出るようになったのはいつ頃からなのでしょうね。
子どもの頃はおしめを洗うのは専ら川だったように思います。電気釜や電気洗濯機の登場は私らが小学生のころでしたでしょうか?革命的でしたね。
若い人には信じられないでしょうが。
昔の方は偉かったですね。
仰るように我々の田舎には映画館が4つありましたね。八劇と呼んでいた大劇場ではもっぱら東映のチャンバラ映画で子どもの頃からお世話になりました。その後はいかがわしい類が多く、足が遠のきました。隣りに同じ経営者が明星劇場を建てました。われわれは明劇と呼んでいました。ここは日活映画を上映し、私は石原一族はその頃から好かず、小林旭を好んでおりました。洋画は新開地劇場で新映と呼びましたね。文中で千代田劇場とあるのは平和館のことで坪内グループの経営だったように思います。ここではあなたに感化され、植木等の映画をよく観ました。当時は二本立て、三本立てが当たり前だったので、合わせてゴジラや若大将も観ることになりました。意を決して「白い巨塔」を観に行きました。それが今や一つも無いのは何とも寂しいことです。
映画館の話しをうかがったからという訳だけではないのですが、今日は思いついてとしまえんに「ナイル殺人事件」を観に行きました。エジプトの映像が秀逸だと聞いたからです。ご多分に漏れず私も最も行きたいところはナイル川クルーズでした。しかしいまやもう諦めざるを得ません。これで行った気分になったとは行きませんが、まあ堪能しました。幸か不幸かエラリークイーンの原作を読んでおらず、犯人も知らなかったので、その点でも楽しめました。
余計なことまで書きました。
どうぞお元気でお過ごし下さい。
早速の書き込み有難うございます。
特にすっかり私の記憶の中から消え失せていた「明星劇場」と「平和館」の2つの劇場名を思い出させていただき感謝感激です。早速ブログの劇場名を更新しておきます。ここに記しておかないとおそらく市の歴史のどこにも残らなかったでしょうね。
クレージーキャッツは当時の私の信奉していた持ちネタでしたね。余興でさんざん真似させていただきました。思いおこすにもう半世紀以上前の出来事なのですね。
残り何回投稿できるかわかりませんが、命のあるうちに少しずつ記録を残していけたらと思っています。
丼