丼季報亭「8万時間の休息」

旅の記録や季節の便りそれに日々の思いを軽いトーンで綴ってみました。

582. 昼と夜の長さが等しくなり やがて昼の長さが増え始め

2022-03-17 23:44:29 | 季節の便り

春眠暁を覚えず 昼間は日差しが届いて春の陽気になり 桜のつぼみが膨らんで今まさに開花寸前になりました。

3月20日は 待望久しい 春分(しゅんぶん)です。 二十四節気の4番目の節気です。 

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『暦便覧』に「日天の中を行て昼夜とうぶんの時なり」と記されているとおり、春分では昼夜の長さが等しくなるとされているのですが、実はそれは少々違っています。

一般に 春分はよく昼の長さと夜の長さがほぼ等しくなるとされるが、実際には昼の方が14分ほど長いのです。
今年の東京都の場合 昼のと夜の長さがほぼ等しくなったのは3月17日でした。(日の出:5:50 日の入:17:50)
3月18日から9月27日まで昼の長さが12時間を超え9月28日からまた少しずつ逆になっていきます。

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概して、昼の方が夜よりも長い。日本付近では、年により差があり、平均すれば昼が夜よりも約14分長い。これは、次の4つの理由によるのです。 大気差・太陽の視角・日周視差・春分のずれの4つであり、これらを合わせると、日出は、太陽の中心が地平線から昇るより平均3分25秒早く、日没は、太陽の中心が地平線より沈むより平均3分25秒遅くなる。したがって、春分の日の昼の長さは平均12時間7分、夜の長さは平均11時間53分です。

日本の場合 太陽の姿が見え始める時刻が日の出、見えなくなる時刻が日の入り。
また日の出入りの定義は普遍的なものではありません。現在でもフランスでは太陽の中心で定義しています。

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春分の期間の七十二候は以下のとおりです。

 

春分  七十二候
春分 初侯  3月20日〜3月24日頃
雀始巣(すずめ はじめて すくう):雀が巣を構え始める

 

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日本人にとって古くから身近な存在である雀ですが、最近では生息数が少なく、貴重な存在になっています。

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春分 次侯  3月25日〜3月29日頃
桜始開(さくら はじめて ひらく):桜の花が咲き始める

 

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全国各地から桜の開花が聞こえてくる頃。本格的な春の到来です。

春分 末侯  3月30日〜4月3日頃
雷乃発声(らい すなわち こえを はっす):遠くで雷の音がし始める

 

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春の訪れとともに、恵みの雨を呼ぶ雷が遠くの空で鳴りはじめる頃。
季節の変わり目であり大気が不安定であることから、雪や雹を降らせることもあります。

七十二候中国バージョンは以下のとおり。
玄鳥至(げんちょう いたる):燕が南からやって来る(中国)
雷乃発声(かみなり すなわち こえを はっす):遠くで雷の音がし始める(中国)
始雷(はじめて いなびかりす):稲光が初めて光る(中国)

旬のもの 花 チューリップ
チューリップは赤・白・黄・桃色と他にも様々な色や形の品種があります。

 

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日本に入ってきたのは江戸末期であり、現在は新潟県・富山県の県花とされています。

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旬のもの お菓子 桜餅

 

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桜餅は餡の入ったお餅を塩漬けされた桜の葉で包んだものです。
関東風と関西風があるのは、元々江戸で考案された桜餅が、
関西へ伝わる際にアレンジされた為とされています。



春分 旬のもの さかな 帆立貝 ほたてがい
貝殻が開いた状態の時に、一方の殻が船で
もう一方が帆に見える事が名前の由来となった帆立。
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身が厚くなりタンパク質が増え、旨みが濃くなっているのが今の時期です。
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旬のもの 野菜 土筆 つくし 

 

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この時期筑紫は田畑や川の土手に群生しています。
川沿いを歩き注意深く足元を見ると簡単に見つかるかもしれません。
土筆の花言葉は「向上心」です。
真っ直ぐ上に伸びている姿からも前向きさが伝わってきます。




旬のもの 言葉  暁と曙
暁は夜が明け始める前のことであり、夜の終わる頃とも言われています。

 

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曙は夜が明け始め空が明るくなり始める頃です。
曙は「夜が明ける」と「ほのぼのと明ける」という言葉が組み合わさってできた言葉です。

出典: この項 参照 出典: 暦生活  および ウイキペディア
https://www.543life.com/season/shunbun

3月16日夜FaceBookの「我が家の晩御飯」投稿中に 急に周囲が揺れ始め
やがて自らの身体もゆっくりと揺れ始め 気持ちの悪い揺れが長い時間続きました。

三多摩で震度4くらいでしょうか。緊急地震速報やら津波警報やらが出て、大事にならないことを祈ります。
横浜で道路に電柱が倒れたり、関東地区でも200万戸以上が停電したり 明け方まで不気味な夜が続きました。
翌日新幹線が脱線した事故をニュースで見ましたが、奇跡的に大事故には至らなくて何よりでした。

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閑話休題 : 序-2 運命を感じる奇跡的出会い 



昭和25年 父は沖縄では戦争中に沖縄本島で生じたスクラップの処理を請け負った。 
現地では処理した素材を本土まで運搬するという作業に人手が必要になった。

2人の若者が新たに作業員として採用された。 帰路スクラップを乗せた後、2人の若者は 船で下働きをしながら、本土への渡航費を浮かせるメリットもあったようである。 

庄吉丸は木造船舶であり、急いでいても帰りの航路は、木造船舶が本来通るべきルートを選ぶべきであった。
ところが船長は木造船舶が本来通るべきルートを択ばず、鉄製の船のルートを選択した。
リスクはあるが、早く帰国するための賭けでもあった。

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鉄製の船のルートを選択した木造船は帰路嵐に巻き込まれ遭難したのであるが、ここで最初の疑問が生じる。 なぜ気象情報に疎い船長に帰路の航路選択を託したのかである。 木造船・鉄船航路選択・嵐の到来予測もできない船長そしてこの事業のセットアップを実際に存在していなかった架空の会社に委託したこと。すべてがリスクだらけの無謀な行為であった。

船が難破し沈む直前、父は沖縄から乗船した若者に「自分は四国の八幡浜に妻と二人の男の子を残してきた。このまま沈んでいく船と運命を共にするのはいかにも無念であるし、残された家族が気がかりでならない。」と言い残して船体と一緒に沈んでいったという。他の乗組員も運命を共にしたという。しかし気がかりでならないのなら、なぜ最後まで生きる努力を維持できなかったのか。

 沖縄から乗船した2人の若者と四国からの乗組員一人が何日か漂流の後、太平洋上で救助された。 船主である父、船長、四国からの乗組員は一人を残して全員帰らぬ人となった。 のちに救助された3人は船主である父が難破した船と一緒に沈んでいくのを目撃したと証言している。まるで救命ボートの上からこの情景を観ていたかのように。

既述のようにこのビジネスは三国人の経営する幽霊会社がもちかけ、セットアップした話であり、法的に正規の渡航ではなかった。おまけに数人の船員を雇用しており、遭難死した乗員の遺族への補償が急務となっていく。叔父を筆頭に残された遺族はこの辛辣な仕事に立ち向かわざるを得なかった。

病弱な叔父が家業を継いで事に当たったが過労がたたり早世したため、未亡人となった母が代わりに関係官庁の呼び出しを受けるようになった。 網元の権利は売却され乗組員の補償費用のために充当された。資金が不足し肥料工場の土地も遠縁の人物に売却された。 土地と家屋・畑も名義上は遠縁の親族のものに書き換えられていた。

昭和25年(1945年)当時、沖縄は米軍の占領下にあり、沖縄とのやり取りは輸入の手続きが必要であった。その手続きを委託していた会社が幽霊会社であったため、取引は密輸となり、叔父が亡くなったせいもあり、母は再三裁判所から呼び出しを受け、やがて胸を患い病床に就く。夫を亡くし病に伏した母を見かねた母の実家では将来を案じて母を引き取り、籍を抜いた。

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やがて弟と私は残された祖母と4人の叔母たちの世話になり成長していくことになった。

三つ子の魂というが、私の最も古い記憶は2歳半の時、遭難の知らせに母親が朱色の鏡台の前で泣いている姿と、ある月夜の晩に3歳と1歳の2人の幼児に母親が今生の別れを告げるシーンである。幼心にこれは記憶しなければならない重大事だと感じた。
私の数奇な人生のスタートでもあった。

さて事故から20年後 その時沖縄から乗船し、救助され生き残った若者のうちの一人は浦添市で健在であった。氏の長男はのちに広島大学工学部建築学科に入学し、期を同じくした私の弟の同級生になった。 多くの偶然が重なった奇跡的な出会いであった。 まさしく運命的な出会いであった。

弟は一度県立松山工業高校へ入り、2年通学したが、大学の建築科に入るには受験科目の履修が十分できないことに気づき、八幡浜高校の普通科へ編入ではなく新規入学しておりここで2年間のずれが生じていた。 このずれが二人を巡り逢わせることになったのであった。

昭和46年のことである。弟は夏休みに急遽沖縄へ飛んで 同級生の父親に逢っている。彼の父親である社長TY氏に逢うことができたのだ。生き残った乗員の一人が現地で 住宅会社の社長となって成功していたのである。「兄さん あの時の生存者がいたよ。沖縄でその人に逢ってきたよ。」弟は興奮気味に伝えてきた。

平成3年沖縄出張の際、私は海難事故の遭難者で生還したその人物に会ったが、私が長い間持ち続けた多くの謎は何一つ解明されなかった。
父の最後の言葉を聞いた一人であったが、私にその一言を伝えることができてほっとしたようではあった。しかしそれ以上は語れない。

氏は沖縄で採用され、昭和25年12月の数日を父の船で働き、遭難し漂流し救助されただけであったという。
それ以来その人物からの年賀状が30年以上届いたが、やがて令和になり、氏は亡くなったのか賀状は届かなくなった。

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疑問の多い話であるが、一番大きな謎は、「木造の船舶がなぜ嵐の中を鉄製の船舶航路を選択したのか?」
そして「船主・出資者・四国からの乗員は遭難死しているのに、なぜ3人の乗員のみが生き残っていたのか?」
「海軍の水泳大会で優勝したほどのキャリアを持つ父がなぜ海で遭難したのか?」

いろいろな謎が究明されぬまま、この話は闇の中へ消えていこうとしている。 

父と母は「出会いから別れ」まで3年余りの生活が親子4人の家族としての暮らしであった。昭和22年から昭和25年までの出来事である。

一つだけ言えることは八幡浜劇場のオーナーがあの時、市川右太衛門出演興行を思いつかなければ、両親はまず出会うこともなかったであろうということだ。その出会いがなければ我々兄弟は生まれていないわけで私の人生も存在していない。

 間に入って無理な縁談を進めた人物は夫が遭難死して母が実家に戻された折、祖母に詫びにきたそうだが、後の祭りであった。

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また八幡浜劇場は昭和30年ごろ東映映画上映館として栄え、隣に日活映画上映館「明星劇場」を併設、 昭和42年にボーリング場、後にはローラースケート場となったが昭和46年2月に全焼し焼失している。 話の起源が町から消えてしまっている。

賢者は話すことがあるから話す。
愚者は話さずにいられないから話す。

数奇な運命の一生が間もなく終焉を迎えようというのに 生家の滅亡の謎を何一つ究明もできず 私は愚者になってしまっていた。

心を悩まされ続ける奥の深い不足感の一因を見つけたような気がした。

序-2) 了

 
 
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2 コメント

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Unknown (愕然草)
2022-03-20 10:59:15
ときどき寒い日もありますが、着実に暖かくなってきました。毎年、どこかに梅見に行くのを恒例にしていたのですが、今年はまだ早いと言っている内に、もう桜が咲きそうです。ひきつづき春らしい写真を楽しみに待っております。
それにしても先日の地震は驚きましたね。私はもう寝ようとしていたのですが、硝子戸のついた棚が落ちてくるのではないかと慌てて押さえました。翌朝、その話をすると家族からそういうことをする年寄りがとかく怪我をするので、ひたすら避難をするよう忠告されました。苦笑。
文章を拝見する度に「事実は小説より奇なり」という言葉を思い出します。
ではまたお元気でお過ごし下さい。
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「8万時間の休息」 (丼季報亭)
2022-03-20 18:26:08
愕然草さん

いつも書き込み有難うございます。
本文にも記述しましたが、あの夜の地震は ホントに嫌な感じでしたね。 眠れませんでした。

「事実は小説より奇なり」そうなんですよね。あまりに奇想天外な偶然の話が続き、自分の運命の特異性を再認識しています。

しかし プーチンは許せない政治家ですね。どうしてロシアはそんなリーダーにいつまでも国の運命をゆだねているのか、いつまで暴挙を続ける気なのか? 早く次世代リーダーの台頭を待ちたいところですが。我々の目の黒いうちに発生できるかは疑問ですね。
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