丼季報亭「8万時間の休息」

旅の記録や季節の便りそれに日々の思いを軽いトーンで綴ってみました。

105.いつの世も お継ぎ争いは…

2008-07-18 01:28:58 | 閑話

              105.いつの世にも世継ぎ争いは…

  夏たけなわ、大輪の向日葵がピーカンの空の下で真夏の太陽に向かって咲いている。

 今日も連ドラ「篤姫」の話・・・質問の投稿がある前に基礎講座です。 13代将軍家定が決定した14代家茂も満20歳の若さで病死すると、その後継15代将軍は徳川「御三家」からではなく「御三卿」一橋徳川家から慶喜が選ばれる。

「御三家」「御三卿」について触れてみたい。まるで日本史の復習みたいな話になってくるため、特に幕末の歴史に強い方は基礎なのでパスしてください。

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徳川御三家は、宗家の後嗣が絶えた時に備え、家康が宗家存続のために遺したものであり、尾張家・紀州家・水戸家の三家のことである。 家康は,幕府を守り将軍を補佐する藩として「御三家」を設け,将軍家に次ぐ家格を与えた。

・尾張徳川家(尾張藩)…始祖は徳川家康の9男義直
・紀州徳川家(紀州藩)…始祖は徳川家康の10男頼宣
・水戸徳川家(水戸藩)…始祖は徳川家康の11男頼房

 
水戸家は他の2家よりも官位・官職の点では下ではあるが、朝廷に対して次期将軍家の奏聞をし、また、江戸常勤であること等から、御三家と呼ばれた。


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 将軍家に後嗣が絶えた時は、尾張家か紀州家から養子を出すことになっており、8代将軍吉宗から14代将軍家茂までは紀州家の血筋である。最後の15代将軍慶喜は水戸家出身だが、御三卿の一橋徳川家への養子を経て将軍家を継承した。

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 御三卿(ごさんきょう)は、江戸時代中期に分立した徳川氏の一族であり、徳川将軍家に後嗣がない際に将軍の後継者を提供する役割を担った。

・田安徳川家(田安家)…始祖は8代将軍徳川吉宗の次男宗武
・一橋徳川家(一橋家)…始祖は8代将軍徳川吉宗の四男宗尹
・清水徳川家(清水家)…始祖は9代将軍徳川家重の次男重好


 8代将軍吉宗が庶子の宗武、宗尹を取り立てて別家させたのが御三卿の起こりである。(なお庶子とは非嫡出子をいう。)さらに、吉宗の長子である9代将軍家重が、自身の庶子重好を別家させることで三家の体制が確立した。

 家格は徳川御三家に次ぐ。三家の当主は、公卿の位である従三位に昇り、省の長官(卿)に任ぜられる例であったから御三卿といった。姓は徳川であり、田安・一橋・清水の名称は、それぞれの屋敷地が所在する江戸城内の最も近い城門の名称に由来している。

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吉宗が田安家・一橋家を創設した意図は、従来、将軍家(徳川宗家)の後嗣を出す役割を担ってきた徳川御三家と将軍家との血縁関係が次第に疎遠になったことに鑑み、御三家とは別個の親族を将軍家の新たな藩屏とすることにあった。

 それ以後、将軍家に後嗣がないときは、御三家および御三卿から適当な者を選定することとされた。 実際、11代将軍家斉と15代将軍慶喜が一橋徳川家から、田安徳川家から徳川家達が、それぞれ徳川宗家を相続している。

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 御三卿の「家」としての性格は、江戸時代の他の「家」とは明らかな相違が認められる。

 御三家は 領地に藩組織を形成したが、御三卿は幕府からは各家に10万石が給せられていたものの、独自の藩は立てず、諸国に分散していた領地の実効支配は幕府に委ねられていた。 また、家老以下の家臣団も、主に旗本など幕臣の出向によって構成されていた。


 このように、御三卿は独立した別個の「家」ではなく、将軍家(徳川宗家)の「家族・身内」として認識されており、社会的にも経済的にも大きく依存している実態があった。御三家は領地を実効支配しているので、その経営に従事しなければならなかったのである。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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 御三卿は 紀州出身の8代将軍吉宗が講じた 尾張との将軍家後継争いに機先を制した手段でもあった。事実 御三家のひとつであった尾張からは誰一人後継者にはノミネートされることなく14代まで紀州の血筋が将軍職を後継した。

 今もなお、トップに立つものの選択は常に最適の人物が選択されるとは限らない。いつの世にも後継者争いには 利害が絡み 関係者には悲喜こもごもとなりがちである。 吉宗から何を学ぶかも 人それぞれといえよう。

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2 コメント

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暴れん坊将軍吉宗 (あこ)
2008-07-18 02:19:36
徳川3家と3郷に意味ありがとうございます。
良く分かりました。

尾張が1人もいないとは。。。
今の経済は尾張で持っているのに。。。

吉宗は紀州びいきであったことも明白に
分かりました。

11代将軍家斉は50人位の子をもうけた将軍
のような気がしましたが、沢山の後継者を作った
のは、吉宗の願いに沿ったということになりますね。

私の暴れん坊将軍吉宗のイメージを変えました。

返信する
家斉の子・妻妾 ()
2008-07-21 23:56:48
あこさん

いつもブログご愛読有難うございます。

調べてみると 確かに
「暴れん坊将軍吉宗」のイメージは
民放が作り上げた虚像なのですねえ。

血筋 エゴ 人間社会は 少し複雑です。



 11代将軍家斉について よくご存知ですね。

 ご指摘の11代将軍家斉は特定されるだけで16人の妻妾を持ち、男子26人・女子27人の子を儲け、その息子たちの養子先に選ばれた諸国の大名の中には家督を横領されたものもあった。

 また、家斉にはそのほかにも妾がいたとも伝えられており、一説には40人とも言われる。

 御落胤は数知れず、それら膨大な子供たちの養育費が、逼迫していた幕府の財政を更に圧迫することとなり、やがて幕府財政は破綻へ向かうこととなったほどだそうです。

 栄華を極めた家斉であったが、その最期は誰ひとり気づかぬうちに息を引き取ったと伝えられます。

ここまでくると やはり 江戸幕府も末期に近づき始めていたのですね。

「丼」
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