104. 徳川14代将軍は大の甘党
この夏最初の朝顔が一輪ベランダに開花していた。 あと数日で土用に入るが、NHK大河ドラマ「篤姫」は今週から幕末の動乱期に入る。
第13代将軍家定の指名した後継14代将軍は紀州藩第13代藩主慶福(のちの家茂)であり、篤子もこれを支持・支援していくのであるが.....。
徳川 家茂(とくがわいえもち)は、13代徳川家定の従兄弟。将軍就任の前は御三家紀州藩第13代藩主。安政5年(1858年)第13代将軍・徳川家定も死去したとき 家茂は13歳という若年であったが、第11代将軍・徳川家斉の孫に当たるという経緯から、慶喜を抑えて将軍に就任した。
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血筋だけでなく英明な風格を備えており、勝海舟をはじめ幕臣からの信望厚く、忠誠を集めたと言われている。 とはいえ、文久2年(1862年)までは田安慶頼が、その後は一橋慶喜が「将軍後見職」に就いていたため、その権力は抑制されていた。
文久2年(1862年)に公武合体策の一環として和宮と結婚。政略結婚ではあるが、和宮に対してたびたび贈り物をするなど非常に気を遣い、2人の関係は良好であった。徳川家歴代の将軍と正室の中で最も夫婦仲が良いといえたのは家茂・和宮であったといわれたほどである。
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家茂はわずか20年の生涯であったが、幕末の動乱期の中をその若さで潜り抜けていることは高く評価されている。 勝海舟からは、「若さゆえに時代に翻弄されたが、もう少し長く生きていれば、英邁な君主として名を残したかもしれない。武勇にも優れていた人物であった」と評価されている。
また、幕臣からも信望が厚かったと言われ、家臣や女性や動物たちに至るまで非常に優しい態度で接する一方、剛毅な一面を持つ人柄が明治以後に旧幕臣たちなどから様々な逸話で伝えられている。 慶応2年(1866年)、家茂は第2次長州征伐の途上大坂城で病に倒れ 同年7月20日に大坂城にて薨去した。
享年21(満20歳没)
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家茂は羊羹、氷砂糖、金平糖、カステラ、懐中もなか、三色菓子など甘いものを好んだ。遺骨の調査を行った鈴木尚の著書・『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』によれば、残存する31本の歯の内30本が虫歯にかかっていた。虫歯や脚気の原因はこれらの食べすぎだと思われる。
記録などから総合するに、家茂はもともと歯のエナメル質が極端に薄い体質であったうえ、大の甘党でもあった。 その虫歯が家茂の体力を弱め、脚気衝心、さらには医師間の診断内容の相違(漢方の典医は脚気・、西洋医の幕府奥医師たちはリウマチだとの診断)も加わり、家茂の命を奪ったのではないか、と指摘されている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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余談ながら 僚友K氏も 大の甘党である。かつては毎日ハワイのマカドニア・ナッツチョコを1-2箱頬張っていた。ゆえに 糖尿を病っている。
いまなお現役でご活躍であるが この先 自重してお大事にしていただきたいものである。
もうひとつのブログ
◆丼季報亭の「丼季報亭の四方山話」(2002年9月投稿開始)は
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◆4Travel. 「Donkyさんの旅のブログ」」(2013年6月投稿開始)は
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お時間があるときにでも、またお気軽にお立ち寄りいただければとても嬉しく思います。
14代将軍徳川家茂のお話ありがとうございます。
13歳で将軍になり、満20歳で逝ってしまう短さ。
いい加減な医療知識。
甘党だと言うことは、頭脳はブドウ糖しかエネルギーに使わないので、頭脳を良く使ったのでは
ないのだろうか。。。
徳川家康は幕府が何時まで持つものと考えて
いたのだろうか。
いつもブログご愛読有難うございます。
家茂も 良家の子息でなければ
甘いものを たくさん食べたり
出来なかったはずですから
何が幸せかは わかりませんね。
暑い中 ご自愛くださいますように。
「丼」