2021年12月14日(火)より Netflix で全世界同時独占配信されたシリーズ「未来日記」
どうしたことか初回からすっかりこれにはまってしまいました。 詳しくは後述するとして今日はまず「大寒」からです。
1月20日〜2月3日頃 は二十四節気 大寒(だいかん)にあたり、寒(小寒 - 立春前日)の中日で、一年でいちばん寒さが厳しくなるころとなります。武道ではこのころ寒稽古が行われます。
『暦便覧』では「冷ゆることの至りて甚だしきときなれば也」と説明しています。 つまり 冷えることが、行きついてこの上なく、はなはだしいから「大寒」なのです。
やがて「三寒四温」という言葉のように、寒い日が三日続くと、その後の四日は暖かくなり、寒い中にも少しだけ春の気配を感じられます。
『暦便覧』では「冷ゆることの至りて甚だしきときなれば也」と説明しています。 つまり寒くて 冷えることが、行きついてこの上なく、はなはだしいから「大寒」なのです。
やがて「三寒四温」という言葉のように、寒い日が三日続くと、その後の四日は暖かくなり、寒い中にも少しだけ春の気配を感じられます。
凍てついた地面に蕗の花が咲き始める頃。
地面には雪が積もり、強い寒さが襲ってくる時期ですが、
草花は春に向けて着実に動き出しています。
この時期に、一年での最低気温の記録がでることが多く、
氷点下に達する地域も多くみられます。
鶏が春の気を感じ、たまごを産み始める頃。
やがて「三寒四温」という言葉のように、寒い日が三日続くと、その後の四日は暖かくなり、寒い中にも少しだけ春の気配を感じられます。
「大寒」七十二候
大寒 初侯 1月20日〜1月24日頃
款冬華 ふきのはなさく
大寒 初侯 1月20日〜1月24日頃
款冬華 ふきのはなさく
凍てついた地面に蕗の花が咲き始める頃。
地面には雪が積もり、強い寒さが襲ってくる時期ですが、
草花は春に向けて着実に動き出しています。
大寒 次侯 1月25日〜1月29日頃
水沢腹堅 さわみずこおりつめる
沢の水が氷となり、厚く張りつめる頃。この時期に、一年での最低気温の記録がでることが多く、
氷点下に達する地域も多くみられます。
大寒 末侯 1月30日〜2月3日頃
鶏始乳 にわとりはじめてとやにつく
鶏始乳 にわとりはじめてとやにつく
鶏が春の気を感じ、たまごを産み始める頃。
自然な状態の鶏は、日照時間が長くなるにつれ、
産卵率が上がっていくため、春から夏にかけてたくさん卵を産みます。
産卵率が上がっていくため、春から夏にかけてたくさん卵を産みます。
「大寒」旬の木 南天なんてん
写真はわが家の晩御飯から「鰤の塩麹焼き」
「難を転じて福となす」という意味に通じることから縁起が良いとされ、
正月飾りなど祝事に使われています。
正月飾りなど祝事に使われています。
「大寒」旬の魚 鰤 ぶり
写真はわが家の晩御飯から「鰤の塩麹焼き」
脂の多い魚であることから、「アブラ」が変化し「ブリ」という
名前になったと言われています。
鰤は大きくなるにつれて呼び方が変わる出世魚です。
名前になったと言われています。
鰤は大きくなるにつれて呼び方が変わる出世魚です。
「大寒」旬の果物 金柑きんかん
実は小さいですが、皮ごと食べれるため、ビタミンCをたくさん取ることができます。
「大寒」旬の野菜 牛蒡ごぼう
写真はわが家の晩御飯から「牛蒡と穴子焼の煮物」
ごぼうは身体の毒素を排出してくれるため、血液が浄化され、
むくみの解消やお肌の調子を良くしてくれます。
写真はわが家の晩御飯から「牛蒡と穴子焼の煮物」
ごぼうは身体の毒素を排出してくれるため、血液が浄化され、
むくみの解消やお肌の調子を良くしてくれます。
「大寒」旬の行事 節分せつぶん
立春の前日のことで、「季節を分ける」という意味があります。
季節の変わり目には鬼がでるといわれたことから、
「鬼は外、福は内」と煎った豆をまく慣わしや、柊と鰯の頭を玄関に飾る習慣ができました。
この項 参照 出典: 暦生活 および ウイキペディア
https://www.543life.com/season/daikan
さて 『未来日記』はTBSテレビの20年前の人気企画の復活で、今回はNetflixと協力して制作された作品です。
未来日記は「これから起こることが書かれている不思議な愛の日記」。全く知らない男女へ日記が届けられ、そこには2人が恋に落ちていく未来が書かれています。信じられないような出会い、感動的な愛の告白など、非日常的でドラマチックな体験をしていく中で、男女は恋に落ちていきます。
そして最後の日記には「永遠の別れ」が書いてあり、未来日記で出会った2人は、未来日記で別れることが決まっています。
「お互いを好きになったとしても、日記に書かれたとおりに別れなければならない」恋愛ドキュメンタリードラマで 見入っているうちにドキドキ切ない週末を充分感情移入させてくれる不思議なドラマです。
観ている側としてはドラマが終わった後で、この二人の未来はどうなっていくのか気になるところですが、ほんとのところは神のみぞ知るんでしょうね。
閑話休題: 与えられしものから自分の意志へ
焼け出された後の二つの決定とは 一つ目は若くして所帯を持つと決めたこと、 二つ目は事務職から営業職への転出願いを出したこと。 二つとも 勢いで決めた無鉄砲この上ない決断かもしれない。 ここに至るまではたしかに不思議な力に与えられた避けられない不可抗力ばかりであった。
しかしこの2件は背景に複雑な不可抗力はあったものの いずれも自らの選択であり、すべて自己責任。 決めた以上後戻りはできない。
あることをきっかけに、前向きに生きることを選択し道を切り開いたからこそ、器の大きな人になるらしい。
しかし確かに前向きに生きることは選択したが、 誰でもが大器に化けるわけではない。 生活のために今来た道を振り返っている余裕はなくなったからであって 目を見張るような道を切り開こうとしたわけでもない。
何故営業へ転出願いを出したのか。 営業職の収入はほぼ完全歩合制で 事務職に比べて不安定であった。 売れないセールスは同じ職場で働いている課付総務係・事務職の奥さんに収入面で抜かれることも珍しくなかった。 仮にこの夫婦の基本給が同一のケース、奥さんの賞与の37.5%相当分が 営業の夫の最低保証分。
賞与の残り62.5%相当の収入は売上達成比率に応じて支給された。
売り上げ目標に対し100%の成績が残れば 収入はほぼ 同一となり、目標を超えた部分は収入に上乗せされる。 目標に対し200%近い成績を上げると、翌年目標がある程度上乗せされ収入が青空天井にならないように抑えられる。 目標に対する営業成績が収入に大きく影響する世界であった。 売れれば金になるし、必需品の購入にはお金はあるにこしたことはない。
これを狙ったのではない。 高いハードルを設定して、これを乗り越えることで嫌なことは忘れ、現状打破・ブレークースルーしようとしただけのことであった。 この後も繰り広げられる運命の女神のいたずらは公私ともに過酷なもので せっかくの試練の時も女神の狙い通りには私は活かし切れず 最後まで自分の小さな器には 重荷になっていた。
事務職から営業職への転出願いを出し内勤から営業に転じ 建設業界を担当することとなった。
営業転出はともかく 少々軽率であったかもしれない所帯を持つほうは 子供の寝顔に救われた。
不運の連続で挫けそうになって何もかも投げ出そうかと思うとき、あどけない寝顔が親としての責任を思い出させた。 何よりもこの子たちには自分が体験したつまらない不可抗力を味合わせてはならない。
運も実力のうちというから結局これが自分の運気・実力でしかない。
この後も生きる意欲を失いかねない試練の時がこれでもかとばかりに続く。
営業に転じるや ここで再び巨大な歴史の流れ・不可抗力が襲う。 オイルショックであった。建設業界への影響は大きかった。不景気が 営業活動を大きく阻害した。とりわけ国産メーカーは半導体工場発注をバーターに客先を翻意させていった。どんな努力も国産メーカーの半導体工場の工事発注互恵取引には勝てなかった。
お客様の経営者が言った。「うちはなぜ一件も工事を出してくれないメーカーと付き合う必要があるのか」多くの営業が契約直前に苦杯をなめた。互恵取引が認められていない私はお客様の経営者に工事発注してあげられない。しかし IT部門の管理職の愚痴や心配事なら聞いてあげられる。当時土曜日は正午までの半日勤務のため、午前中時間を持て余していたお客様の中間管理職を毎週土曜日に訪ね話を聞いた。やがて客先での信頼感が芽生えてきた。
同じ課の先輩セールスマンが苦戦する中を、私は土日返上、土曜日は午前中客先回り、午後は誰もいないオフィスへ出社。日曜日はお客様とのゴルフや 客先キーマンの趣味に付き合うか、あるいは出社して提案書を準備した。そうやって他人より多少努力はしたかもしれないが セールスマンになって8期連続売り上げ目標を達成した。
成績を残せば残すほど私は次第に増長し生意気になっていた。他人より多少早く昇進しても、目に見えないところで私を推してくれる味方が減少していった。
普通じゃない運命の持ち主なら、普通じゃない価値観を持ち、それなりの行動力が必要であった。しかし神が与えた試練に対する私の克服方法は正しくなかったようだ。自分がとった行動はまず自分はけっして弱くないと信じて突き進むことだった。その結果 横柄でとても謙虚と言えない過信につながった。
謙虚でない、横柄な奴は嫌われる。 私の知らぬ間に味方を失い少しずつ私を支持しない人を作っていたようであった。味方は多い方が良いし、敵は少ない方がよいにきまっている。味方の減少は命取りになることを当時の私はまだ知らなかったのだ。決して増長することなく誰に対しても謙虚に腰を低くし続けるべきであった。
営業になって以来8期連続目標達成のころはともかく、最後の3期連続目標未達時は 情報収集や顧客に何とか気に入られるため多大な経費が出た。 客先との付き合い・社内折衝で深夜帰宅が多く、大半のタクシー代は自費となった。 昼夜を問わず客先訪問に明け暮れたので公費で落とせない経費がかさむ一方だ。
とりわけ情報収集のための接待を自費でこなすなどして金の使い道は要領悪く、貯えは残らなかった。家族のための住居を購入したくらいで懸案のカメラなど趣味の商品やぜいたく品には金は回らなかった。 大半が自己負担であるし、売り上げは伸びないので収入面がうまくカバーしてくれない、精神的にはかなり堪えた。
担当する顧客ではババを引かされないにこしたことはない。互恵取引が最優先の顧客などまさしくババであった。他の誰も担当できないからと請け負って男気だけで世の中渡っていくのも楽ではない。
私を評価する管理職の集団に私の昇進に待ったをかける人が一人二人と増えていたようであった。やがて担当客先配置替えで互恵取引を最重要戦略とする顧客を任され営業マンとしては八方ふさがりになっていく。互恵でしか取引しない顧客相手に3期連続売り上げ目標は未達となり、営業の第一線から去ることになった。
営業としての3期連続目標未達の後 本社サポート部門へ回された。 翌年パソコンが世に出始めたころ、日比谷のOAセンターを託された。 大型機を販売していた経験者ではパソコンを担当する最初の一人になった。 このころ余剰人員の早期退職などリストラに向けた動きはひそかに始まっていた。
本社部門を3年経験したのち ‘88年再び営業部門に戻された。結果は2回売り上げ目標を達成、未達1回であり、営業部門での総計14戦10勝4敗となった。
‘91年 特約店営業統括本部長補佐となり それから2年間 24時間休みのない働きバチとして生きることになった。 この補佐時代の2年間は生活そのものが尋常ではなかった。上司が成績重視の普通でない人物であった。
うなぎ上りの土地の評価額急上昇に疑念を持ち始めたころ ‘92年 バブルははじけた。 バブルがはじけるや女神からの手厚いプレゼントはとどまることなく届けられた。「出向・転籍」「早期退職」「退職勧告」矢継早にあらたな施策が放たれた。 折も折 私は早期退職社員に向けた受け皿会社の一つを設立することを任された。
早期退職する社員たちの受け皿である関連企業の設立が急務であった。ほとんど未経験であったが何とかやり遂げ1社設立に尽力した。 その縁で中小型営業の統括本部から営業推進部長として声がかかった。
‘93年 特約店営業統括本部から 前述の営業推進本部へ異動。 この折に巡り合った直属の上司はこの分野で知る人ぞ知る仁徳に長けた人物であった。 穏やかな性格で腰は低く、謙虚な人格者で部下に対しても敬語を欠かさなかった。半年間であったが、私は上司から私の人格に欠けていた部分の必要性を教わった。 しかし40代後半を迎えており時すでに遅かったのだが…。
戦後最大の景気後退期となりバブル崩壊の時期を潜り抜け 紆余曲折ののち私は最後の職場となる「お客様相談センター」に乞われて異動していった。上司は 卓越した能力を持ち リーダーシップに長けた人物であり生涯の僚友でもあった。
働き盛りの壮年期 つかの間ではあったが自分の能力を活かせる職場のような気がしていた。と思った矢先 例によって降ってわいたように ドーンと 大きな不可抗力が襲う。 今度はたった一人の私の弟と 数年後の私に飛んできたのであった。
弟はやがて生命を絶つ原因となる胃がんと、私はその影響度が手術し検査してみるまで分からない胆嚢ポリープがそれであった。
二つの大きな不可抗力によって兄弟の人生がまたまた急変していく。人生中半を折り返しても波乱は続いた
と思った矢先 働き盛りの壮年期 例によって降ってわいたように ドーンと 大きな不可抗力が襲う。今度はたった一人の私の弟と 数年後の私に飛んできたのであった。
弟はやがて生命を絶つ原因となる胃がんと、私はその影響度が手術し検査してみるまで分からない胆嚢ポリープがそれであった。
二つの大きな不可抗力によって兄弟の人生がまたまた急変していく。人生中半を折り返しても波乱は続いた。
立春の前日のことで、「季節を分ける」という意味があります。
季節の変わり目には鬼がでるといわれたことから、
「鬼は外、福は内」と煎った豆をまく慣わしや、柊と鰯の頭を玄関に飾る習慣ができました。
この項 参照 出典: 暦生活 および ウイキペディア
https://www.543life.com/season/daikan
さて 『未来日記』はTBSテレビの20年前の人気企画の復活で、今回はNetflixと協力して制作された作品です。
未来日記は「これから起こることが書かれている不思議な愛の日記」。全く知らない男女へ日記が届けられ、そこには2人が恋に落ちていく未来が書かれています。信じられないような出会い、感動的な愛の告白など、非日常的でドラマチックな体験をしていく中で、男女は恋に落ちていきます。
そして最後の日記には「永遠の別れ」が書いてあり、未来日記で出会った2人は、未来日記で別れることが決まっています。
「お互いを好きになったとしても、日記に書かれたとおりに別れなければならない」恋愛ドキュメンタリードラマで 見入っているうちにドキドキ切ない週末を充分感情移入させてくれる不思議なドラマです。
主人公は沖縄の大学に通う真愛と、東京で料理人として働く拓斗。日記につづられた恋物語の主人公に選ばれた初対面の2人が、横浜で出会いを果たします。 物語をとおして登場するひまわりの花言葉は色別・種別・本数によってそれぞれ異なります」。 その意味に最初から気づいていれば物語の行方に気づきます。
たとえば1本「一目惚れ」 3本「愛の告白」 7本「密かな愛」 11本「最愛」 99本「永遠の愛」「ずっと一緒にいよう」。
7話で二人がみた花火99輪・ひまわりの花言葉は「永遠の愛」です。 花火が終わると、2人はボロボロと涙を流し、抱き合い、拓斗が真愛の涙を拭ったあと2人は永遠の別れとなるキスをしたあと、2人は涙を流しながらも笑顔で手を振って別れます。
そして8話で 思い出の場所で再び出会った二人は........
7話で二人がみた花火99輪・ひまわりの花言葉は「永遠の愛」です。 花火が終わると、2人はボロボロと涙を流し、抱き合い、拓斗が真愛の涙を拭ったあと2人は永遠の別れとなるキスをしたあと、2人は涙を流しながらも笑顔で手を振って別れます。
そして8話で 思い出の場所で再び出会った二人は........
観ている側としてはドラマが終わった後で、この二人の未来はどうなっていくのか気になるところですが、ほんとのところは神のみぞ知るんでしょうね。
この項 了
閑話休題: 与えられしものから自分の意志へ
焼け出された後の二つの決定とは 一つ目は若くして所帯を持つと決めたこと、 二つ目は事務職から営業職への転出願いを出したこと。 二つとも 勢いで決めた無鉄砲この上ない決断かもしれない。 ここに至るまではたしかに不思議な力に与えられた避けられない不可抗力ばかりであった。
しかしこの2件は背景に複雑な不可抗力はあったものの いずれも自らの選択であり、すべて自己責任。 決めた以上後戻りはできない。
あることをきっかけに、前向きに生きることを選択し道を切り開いたからこそ、器の大きな人になるらしい。
しかし確かに前向きに生きることは選択したが、 誰でもが大器に化けるわけではない。 生活のために今来た道を振り返っている余裕はなくなったからであって 目を見張るような道を切り開こうとしたわけでもない。
何故営業へ転出願いを出したのか。 営業職の収入はほぼ完全歩合制で 事務職に比べて不安定であった。 売れないセールスは同じ職場で働いている課付総務係・事務職の奥さんに収入面で抜かれることも珍しくなかった。 仮にこの夫婦の基本給が同一のケース、奥さんの賞与の37.5%相当分が 営業の夫の最低保証分。
賞与の残り62.5%相当の収入は売上達成比率に応じて支給された。
売り上げ目標に対し100%の成績が残れば 収入はほぼ 同一となり、目標を超えた部分は収入に上乗せされる。 目標に対し200%近い成績を上げると、翌年目標がある程度上乗せされ収入が青空天井にならないように抑えられる。 目標に対する営業成績が収入に大きく影響する世界であった。 売れれば金になるし、必需品の購入にはお金はあるにこしたことはない。
これを狙ったのではない。 高いハードルを設定して、これを乗り越えることで嫌なことは忘れ、現状打破・ブレークースルーしようとしただけのことであった。 この後も繰り広げられる運命の女神のいたずらは公私ともに過酷なもので せっかくの試練の時も女神の狙い通りには私は活かし切れず 最後まで自分の小さな器には 重荷になっていた。
事務職から営業職への転出願いを出し内勤から営業に転じ 建設業界を担当することとなった。
営業転出はともかく 少々軽率であったかもしれない所帯を持つほうは 子供の寝顔に救われた。
不運の連続で挫けそうになって何もかも投げ出そうかと思うとき、あどけない寝顔が親としての責任を思い出させた。 何よりもこの子たちには自分が体験したつまらない不可抗力を味合わせてはならない。
運も実力のうちというから結局これが自分の運気・実力でしかない。
この後も生きる意欲を失いかねない試練の時がこれでもかとばかりに続く。
営業に転じるや ここで再び巨大な歴史の流れ・不可抗力が襲う。 オイルショックであった。建設業界への影響は大きかった。不景気が 営業活動を大きく阻害した。とりわけ国産メーカーは半導体工場発注をバーターに客先を翻意させていった。どんな努力も国産メーカーの半導体工場の工事発注互恵取引には勝てなかった。
お客様の経営者が言った。「うちはなぜ一件も工事を出してくれないメーカーと付き合う必要があるのか」多くの営業が契約直前に苦杯をなめた。互恵取引が認められていない私はお客様の経営者に工事発注してあげられない。しかし IT部門の管理職の愚痴や心配事なら聞いてあげられる。当時土曜日は正午までの半日勤務のため、午前中時間を持て余していたお客様の中間管理職を毎週土曜日に訪ね話を聞いた。やがて客先での信頼感が芽生えてきた。
同じ課の先輩セールスマンが苦戦する中を、私は土日返上、土曜日は午前中客先回り、午後は誰もいないオフィスへ出社。日曜日はお客様とのゴルフや 客先キーマンの趣味に付き合うか、あるいは出社して提案書を準備した。そうやって他人より多少努力はしたかもしれないが セールスマンになって8期連続売り上げ目標を達成した。
成績を残せば残すほど私は次第に増長し生意気になっていた。他人より多少早く昇進しても、目に見えないところで私を推してくれる味方が減少していった。
普通じゃない運命の持ち主なら、普通じゃない価値観を持ち、それなりの行動力が必要であった。しかし神が与えた試練に対する私の克服方法は正しくなかったようだ。自分がとった行動はまず自分はけっして弱くないと信じて突き進むことだった。その結果 横柄でとても謙虚と言えない過信につながった。
謙虚でない、横柄な奴は嫌われる。 私の知らぬ間に味方を失い少しずつ私を支持しない人を作っていたようであった。味方は多い方が良いし、敵は少ない方がよいにきまっている。味方の減少は命取りになることを当時の私はまだ知らなかったのだ。決して増長することなく誰に対しても謙虚に腰を低くし続けるべきであった。
営業になって以来8期連続目標達成のころはともかく、最後の3期連続目標未達時は 情報収集や顧客に何とか気に入られるため多大な経費が出た。 客先との付き合い・社内折衝で深夜帰宅が多く、大半のタクシー代は自費となった。 昼夜を問わず客先訪問に明け暮れたので公費で落とせない経費がかさむ一方だ。
とりわけ情報収集のための接待を自費でこなすなどして金の使い道は要領悪く、貯えは残らなかった。家族のための住居を購入したくらいで懸案のカメラなど趣味の商品やぜいたく品には金は回らなかった。 大半が自己負担であるし、売り上げは伸びないので収入面がうまくカバーしてくれない、精神的にはかなり堪えた。
担当する顧客ではババを引かされないにこしたことはない。互恵取引が最優先の顧客などまさしくババであった。他の誰も担当できないからと請け負って男気だけで世の中渡っていくのも楽ではない。
私を評価する管理職の集団に私の昇進に待ったをかける人が一人二人と増えていたようであった。やがて担当客先配置替えで互恵取引を最重要戦略とする顧客を任され営業マンとしては八方ふさがりになっていく。互恵でしか取引しない顧客相手に3期連続売り上げ目標は未達となり、営業の第一線から去ることになった。
営業としての3期連続目標未達の後 本社サポート部門へ回された。 翌年パソコンが世に出始めたころ、日比谷のOAセンターを託された。 大型機を販売していた経験者ではパソコンを担当する最初の一人になった。 このころ余剰人員の早期退職などリストラに向けた動きはひそかに始まっていた。
本社部門を3年経験したのち ‘88年再び営業部門に戻された。結果は2回売り上げ目標を達成、未達1回であり、営業部門での総計14戦10勝4敗となった。
‘91年 特約店営業統括本部長補佐となり それから2年間 24時間休みのない働きバチとして生きることになった。 この補佐時代の2年間は生活そのものが尋常ではなかった。上司が成績重視の普通でない人物であった。
うなぎ上りの土地の評価額急上昇に疑念を持ち始めたころ ‘92年 バブルははじけた。 バブルがはじけるや女神からの手厚いプレゼントはとどまることなく届けられた。「出向・転籍」「早期退職」「退職勧告」矢継早にあらたな施策が放たれた。 折も折 私は早期退職社員に向けた受け皿会社の一つを設立することを任された。
早期退職する社員たちの受け皿である関連企業の設立が急務であった。ほとんど未経験であったが何とかやり遂げ1社設立に尽力した。 その縁で中小型営業の統括本部から営業推進部長として声がかかった。
‘93年 特約店営業統括本部から 前述の営業推進本部へ異動。 この折に巡り合った直属の上司はこの分野で知る人ぞ知る仁徳に長けた人物であった。 穏やかな性格で腰は低く、謙虚な人格者で部下に対しても敬語を欠かさなかった。半年間であったが、私は上司から私の人格に欠けていた部分の必要性を教わった。 しかし40代後半を迎えており時すでに遅かったのだが…。
戦後最大の景気後退期となりバブル崩壊の時期を潜り抜け 紆余曲折ののち私は最後の職場となる「お客様相談センター」に乞われて異動していった。上司は 卓越した能力を持ち リーダーシップに長けた人物であり生涯の僚友でもあった。
働き盛りの壮年期 つかの間ではあったが自分の能力を活かせる職場のような気がしていた。と思った矢先 例によって降ってわいたように ドーンと 大きな不可抗力が襲う。 今度はたった一人の私の弟と 数年後の私に飛んできたのであった。
弟はやがて生命を絶つ原因となる胃がんと、私はその影響度が手術し検査してみるまで分からない胆嚢ポリープがそれであった。
二つの大きな不可抗力によって兄弟の人生がまたまた急変していく。人生中半を折り返しても波乱は続いた
と思った矢先 働き盛りの壮年期 例によって降ってわいたように ドーンと 大きな不可抗力が襲う。今度はたった一人の私の弟と 数年後の私に飛んできたのであった。
弟はやがて生命を絶つ原因となる胃がんと、私はその影響度が手術し検査してみるまで分からない胆嚢ポリープがそれであった。
二つの大きな不可抗力によって兄弟の人生がまたまた急変していく。人生中半を折り返しても波乱は続いた。
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